ある日のこと。病理解剖に立ち会う機会を得て、ご遺体の腹部を切開し、臓器を摘出していく作業に加わった。静まり返った解剖室の中、薄く湿った皮膚の下から現れた臓器たちは、どれも息を呑むほど緻密で、静かに完結した美しさを湛えていた。
私はその中でも、腎臓に目を奪われた。掌に収まるほどの大きさのその臓器は、表面は滑らかで、切断面には万華鏡のような集合構造が現れていた。ネフロン。無数の微細な単位が繰り返され、自己相似的に配置された、まるで曼荼羅のような構造。その精緻な設計を前にして、私はふと、問いを抱いた。
──では、脳はどうか?
自由意志を生み出すもの
脳もまた、神経細胞の集合体である。その一つ一つがネットワークを形成し、信号を伝え、感覚を処理し、行動を導く。だが、その構造は、我々の意思によって動かされているのか?それとも、構造そのものが、我々の意思を“動かしているように錯覚させている”のか?
脳もまた、神経細胞の集合体である。その一つ一つが複雑なネットワークを成し、電気信号を伝え合い、外界の刺激を受け取り、内なる思考をかたちづくり、やがて行動へと変換されていく。だが、その仕組みをどれほど解明したところで、ある問いが立ち上がる。
──この構造は、我々の“意思”によって動かされているのか?
言い換えれば、「意志する」という経験は、脳の構造の中に浮かび上がった一つの現象なのか、それとも構造そのものを操る主権的な力なのか。
もし、神経細胞の発火と接続のパターンがすべてを決定しているのだとしたら、私たちが「今、自分の意志で決めた」と思っているその瞬間も、実はすでに脳内で起こった一連の化学反応の“結果”にすぎないのではないか。
そう考えると、意思とは、既に起きたことに対する“物語の補完”──つまり、神経構造が選んだ道を後から正当化するための、幻想的なナレーションなのかもしれない。
では逆に、もし意思が完全に主体的なものだとすれば、私たちは神経構造の制約を超えて、自由に決断し、選択し、変化を生み出せることになる。
しかし、現実には私たちの思考にも行動にも、驚くほど強い“パターン”が存在している。性格、癖、トラウマ、既視感──それらはまるで、すでに脳という地層に刻み込まれた“構造”に沿って思考が流れているかのようだ。
では、本当に“動いている”のはどちらなのか。
我々の意志が脳を動かしているのか、それとも脳の構造が、我々に「意志がある」と思わせているのか。
この二つのあいだに、はっきりとした境界線はあるのだろうか。このテーマは唯物論と心身二元論の対比にも通じるものがある。
リベット実験
たとえば、リベット実験がある。被験者がボタンを押そうと“意識する”よりも先に、脳の準備電位がすでに立ち上がっていた、という有名な実験だ。脳は、我々が意思決定をしたと感じるよりも前に、その決定を下していたというのである。
この実験を拡張するなら、我々が「自分の意志で選んでいる」と信じているその瞬間さえ、実のところ神経構造が導いた結論に過ぎないのかもしれない。意思は後からやってくる“ナレーション”であり、真の指揮者は神経回路──そう考えると、自由意志など幻想ではないかという思いも頭をよぎる。
だが一方で、神経構造は固定されたものではない。神経可塑性、すなわち経験や思考によって神経回路そのものが変化しうるという事実がある。学習、訓練、反復、そして意志の力──これらは確かに、脳の物理的構造を“再配線”していく。
となれば、神経構造が意思を生むのか、意思が神経構造を変えるのか。その関係は一方向ではなく、むしろ互いに影響し合い、循環し合う“可逆的構造”なのではないか。
答えは、きっと一つではない。
ただ、あの解剖室の静寂のなか、腎臓を手にした私は確かに思ったのだ。人間の身体というのは、物理的で、構造的で、そして限りなく抽象的で、思想的でもある。
私たちは、肉体という構造体の中で生き、意思し、変化していく。
その営みは、ただの神経の発火と見ることもできるし、そこに“心”という別の次元を想定したくなることもある。
脳という曼荼羅の中で、今日もまた、意思という名の電位変化が静かに生まれている──
それが単なる物理現象なのか、あるいは何か“それ以上”のものなのか。
次回はその問いをめぐって、唯物論と心身二元論という古くて新しい議論に、静かに触れてみたいと思う。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長







