──胃.jsと魂の分岐点について
医学を学べば学ぶほど、私は唯物論に傾いていった。
特に、解剖学。あの人体を静かに開いていく行為は、神秘を剥ぎ取るのではなく、むしろ構造という美を浮かび上がらせるものだった。解剖学=構造学=プログラミング。これらが一直線に並んだ瞬間でもあった。
当時、私は医学部在学中に起業し、自らコードを書いてサービスを立ち上げていた。だからだろうか、その時、私の中には人体とプログラムが妙にリンクし始める強烈な感覚があった。臓器一つ一つが、まるで特定の機能を持った関数のように思えたのだ。そして、それらはシームレスに接続されながら、より上位の構造を形成している。
胃.js
腸.js
心臓.js
脳幹.js
それらが統合されて、「人体.app」という一つのアプリケーションが起動している──そんなイメージが、私の中にはっきりと浮かんでいた。
それぞれの臓器は、あたかも独立したモジュールのように、自律的かつ密接に機能し合っている。
胃.js は、入力された食物オブジェクトに対して、ペプシノーゲンと塩酸を分泌し、pH2.0という苛烈な環境でタンパク質を分解する。これは digestProtein() 関数によって実装されており、刺激としてのガストリンレベルがトリガーとなってそのルーチンが走る。
腸.js は、十二指腸において胆汁と膵液を非同期に受け取り、それらを用いて脂質を乳化し、膵酵素で糖・タンパク・脂質を分解していく。ここでは absorbNutrients() が主関数であり、絨毛の表面にあるトランスポーターが Na+ グラジエントに応じて物質を取り込むよう設計されている。
心臓.js は、startBeat() をトリガーとする loop() 構造で動作している。
洞房結節(SA node)から発生した電気信号が房室結節を経てプルキンエ線維へと伝わり、全体の同期的な収縮を実現する。その伝導経路は、まるでイベントドリブンな非同期ネットワークであり、誤作動時には arrhythmiaHandler() が呼び出されるように設計されている。
脳幹.js に至っては、呼吸や血圧といった生命維持機能を常駐プロセスとして管理している。延髄にある medullaControlCenter() は、CO₂ 濃度のわずかな変化に反応して adjustRespiratoryRate() を実行する。入力値が閾値を超えると、横隔膜に対して contract() 指令を出し、呼吸数を微細に調整する。
さらに、神経系はインターフェースである。外部刺激という入力を受け取り、内部状態を変数として更新し、出力として行動を返す。sensoryInput() から motorOutput() までのプロセスは、ちょうどマルチスレッドで走るAPI呼び出しのようだ。
呼吸は非同期通信であり、意識とは別のスレッドで常時ループ処理されている。そこに“呼吸を止める”という意志が割り込んだときだけ、一時的にブロックされる。
免疫系は例外処理のようなもので、外敵という例外オブジェクト=ウイルスや細菌が侵入すると、ただちに inflammationHandler() や cytokineCascade() が呼び出され、自己修復ルーチンが発動する。
書き出すとキリがないのだが、こんなふうにして、私は医学をコードとして読むようになり、そして次第に、“心”とは実行されるロジックにすぎないのではないかという考えへと至っていった。
しかし、このような唯物論的な立場に対して、哲学は静かに異議を唱える。
たとえば、デカルトの心身二元論。彼は明確に、「考える私(cogito)」と「それを構成する身体」は別物であるとした。脳の発火だけでは“悲しみ”や“愛”の本質は説明できない、という立場だ。
この観点からすれば、私のような考え方──すなわち「全ては構造であり、関数であり、出力である」という信念は、魂の否定であり、主観の剥奪でもある。
要するに、「人間をコードに還元できる」と考えることは、思考の余白、存在のズレ、“私”という揺らぎを否定するということだ。
実際、臨床の現場に立っていると、「コードで再現できないもの」にしばしば出会う。
たとえば、薬理学的には説明がつかない回復。非合理な選択が導く劇的な変化。感情が沈黙の中で変容していく様──そうした現象は、どうしても“計算不能な何か”を思わせる。
それは、あらかじめ設計された構造に則って動く「人体.app」の挙動というより、コードの規定を微かに逸脱しながら、それでも自己を駆動させようとする何かの存在を感じさせる。
そして私は、そうした出来事の端々に、自由意志と呼ぶべき“ゆらぎ”の痕跡を見出してしまうのだ。
果たしてナンパしようと思う“意思”は本当に自由意思なのか?──それとも、何千年もかけて遺伝子が書き残してきた「繁殖せよ」という古代のスクリプト(本能.js)が、今なお静かに実行されているだけなのか。(どっちでもいい笑)
私たちは構造の中で動いている──だが、その構造を自覚し、それに“抗おうとする意志”そのものが、もしかしたらコードの外部から発生しているのではないか。
そう考えると、「自由意志など幻想である」と断言するには、どこか急ぎすぎた潔癖さがあるようにも思えてくる。
脳が先に決めているのか、意思が脳を書き換えているのか。
この問いの輪郭は、コードと逸脱、構造と跳躍のあいだに浮かび上がってくる。
決定されたカオス
では、どちらが正しいのか。
私は今、こう思っている。
すべてが完全に構造化され、コードに落とし込めるわけではない。だが同時に、“意思”や“魂”といった言葉で済ませるにはあまりにも曖昧で、逃げのような響きがある。
おそらく私たちは、完全に予測可能でも、完全に自由でもない。
神経回路や環境刺激、過去の経験、遺伝子、ホルモンバランス──それらが高次元のパラメータ空間の中で交錯しながら、意思や行動を形づくっている。
つまり、人間という存在は、“決定された混沌”=制御されたカオス系の中に生きているのだ。
この感覚は、私の大好きなSF小説『順列都市』(Permutation City)にも深く通じている。
あの物語では、自己とは何か、意識とは情報処理の産物にすぎないのか、複製された自分はオリジナルの延長線上にあるのか──といった問いが、冷徹な論理と計算の空間の中で突き詰められていく。
作中の人物たちは、決して“構造を超えた何か”を夢見ていたわけではない。
むしろ彼らは、構造そのものに組み込まれていることを理解した上で、その枠組みの外側に出ようと、あえて“構造内であがくこと”を選んでいた。
自己の存在が計算可能なアルゴリズムであったとしても、そこに“何か”を生み出せると信じる意志──それこそが、コードの中での自由意思であり、魂の微光であるかのように、私には思えるのだ。
私たちは、身体というプログラムの中で動きながらも、同時に、“それを観察している私”を持ち続けている。
そのあいだにある微細なギャップ、ノイズ、ゆらぎ──そこにこそ、魂なるものの居場所があるのかもしれない。
そして今日も私は、行動を起こしながら、その“動機”が自分のものなのか、脳の神経構造が先に決めていたのか、少しだけ疑いながら、生きている。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長








