―― Z世代から広がる「必要最低限」の働き方と企業経営への示唆
静かなる退職の定義と背景
「静かなる退職(Quiet Quitting)」とは、実際に会社を辞めることではなく、組織への関わりを“必要最低限”に留め、熱意やキャリアアップ志向を持たない働き方を指します。これは、従来の「会社のために尽くすことが美徳」とされてきたハッスルカルチャー(Hustle Culture)への明確なアンチテーゼとして登場しました。
背景には以下の要素があります:
- Z世代を中心とした価値観の変化:昇進や長時間労働よりも、プライベートや自己実現を優先する傾向。
- パンデミック後の働き方改革:リモートワークの普及により、仕事と生活の境界が曖昧になった結果、「仕事を人生の中心に置かない」という選択が広がった。
- 精神的健康への関心の高まり:バーンアウト(燃え尽き症候群)を避けるため、意識的にコミットメントを抑える人が増加。
静かなる退職の広がりと特徴
「静かなる退職」を選択する人々は、決して怠惰なわけではありません。むしろ彼らは、自らの労働契約で明示された範囲の業務を責任を持って遂行する真面目な姿勢を持っています。ただし、その一方で従来の日本型雇用における「会社に尽くすのが当然」「キャリアアップのために私生活を犠牲にすべき」といった過剰な献身を拒否し、あくまで“契約に忠実である”ことを選び取っているのです。
この姿勢の背景には、「企業は従業員を守ってくれる存在ではない」という現代的な現実認識があります。終身雇用の崩壊、成果主義の浸透、経済不況やリストラのニュースを身近に経験してきた世代にとって、「会社にすべてを捧げても報われない可能性がある」という冷静な学習効果が作用しています。結果として、過剰な熱意を注ぐのではなく、労働のラインを意識的に引くことこそが自己防衛であり、持続可能な働き方だと考える人が増えているのです。
具体的な特徴としては以下のような傾向が見られます。
- 時間外労働を極力避ける
法的に定められた労働時間を遵守し、残業を常態化させない。必要に応じて残業を行う場合でも、あくまで例外的な措置と捉える。 - 昇進や追加の責任を望まない
役職に伴う拘束時間やストレスを避け、自分の生活リズムを優先。必ずしも「上を目指さない=成長しない」ではなく、「望まない競争から降りる」という選択に近い。 - 仕事と私生活の境界を明確に保つ
勤務時間外の連絡や休日出勤を断り、趣味や家庭の時間を重視する。これは“仕事から逃げる”というより、人生のバランスを守るための戦略。 - 成果よりも精神的な安定を優先する
評価や昇給よりも、自分の健康や安心感を優先。バーンアウトを避けるために、「あえて頑張りすぎない」ことを合理的に選ぶ。
こうした行動様式は、単に「働かない」という態度ではありません。むしろ逆であり、「働きすぎない」という自己規律の選択だと言えます。組織に依存せず、個人としての生活や価値観を守りながらも、契約上の責任は果たす。そこには怠惰ではなく、冷静さと主体性が存在しているのです。
企業にとってのリスクと機会
経営者や人事部門にとって、「静かなる退職」は一過性の流行語として片付けることのできない、きわめて深刻な組織マネジメント上の課題です。なぜなら、それは単なる労働態度の変化ではなく、企業の持続可能性や競争力に直結する「働き方のパラダイムシフト」を示しているからです。
リスク
- 生産性の低下:熱意を持つ人材が減ると、組織のイノベーションや競争力が鈍化。
- エンゲージメントの希薄化:同僚同士の協力や主体的な提案が減少。
- 人材流出の前兆:静かなる退職は、実際の退職へとつながる“サイレントシグナル”でもある。
機会
- 持続可能な働き方の模索:企業側が過剰労働を是正し、健康経営を推進する契機。
- 多様な価値観の受容:キャリア志向の強い人材と、安定志向の人材が共存できる組織づくり。
- 心理的安全性の確保:従業員が「無理をしなくてもよい」と感じられる環境は、結果的に離職率低下につながる。
まずリスクの側面から考えると、最大の懸念は生産性の低下です。従業員が組織への過剰な献身を控えるようになれば、短期的には与えられた業務は遂行されても、中長期的な挑戦や自発的なイノベーションの芽は育ちにくくなります。以前であれば、「余計な一歩」を踏み出す人材が新しいサービスや業務改善を引き起こしていましたが、静かなる退職の広がりは、そうした自主的行動の総量を確実に減少させるでしょう。その結果、競争環境が激化するなかで企業の成長速度が鈍化し、ひいては市場での優位性を失う危険があります。
また、エンゲージメントの希薄化も深刻です。従業員一人ひとりが「自分の責任範囲だけを果たせばよい」と考えるようになると、職場における協力関係や横断的な連携が弱まります。例えば、以前なら部門を超えた議論の中で自然発生していたアイデアや改善提案が出にくくなり、組織全体が「与えられたタスクをこなすだけの場」として固定化してしまいます。これは、組織文化の質的低下を招き、職場に漂う雰囲気そのものを硬直させる要因となります。
さらに、静かなる退職はしばしば人材流出の前兆として機能します。外見上は与えられた仕事をこなしているように見えても、内心では「ここに長くいる必要はない」という心理的距離が徐々に広がっていることが多いのです。いわば、退職のカウントダウンが静かに進んでいる状態であり、経営陣や人事が気づいた時には優秀な人材がすでに市場へと流出してしまっている、という事態は決して珍しくありません。静かなる退職は、組織の将来を侵食するサイレントシグナルであるとも言えるのです。
一方で、この現象を「機会」として捉えることも可能です。第一に、企業にとっては従来の過剰労働を是正し、持続可能な働き方を模索するきっかけとなります。日本社会では「長時間働くこと」が忠誠心や努力の象徴とされてきましたが、その価値観が崩れつつある今、企業が率先して健康経営を推進することで、従業員の心身の安定を確保しながら成果を上げる体制を築くことができます。これは単なる労務管理の改善ではなく、企業ブランディングの強化にも直結する動きです。
次に、多様な価値観を受容する組織文化を育む契機となります。キャリアアップを望む人材と、安定した働き方を求める人材は、どちらが正しいという問題ではなく、両者が共存できる柔軟な制度設計が必要です。静かなる退職が広がる社会では、企業が一律に「上を目指せ」と迫るのではなく、それぞれの従業員が自分のライフステージや志向に応じて働き方を選択できるようにすることが、結果として組織全体の人材定着率を高めるのです。
そして最後に、心理的安全性の確保という観点があります。従業員が「無理をしなくてもよい」と感じられる環境は、決して甘やかしではありません。むしろ、安心感があるからこそ必要な場面で真の力を発揮できるのです。心理的安全性が整った職場では、従業員は声を上げやすくなり、失敗を恐れず挑戦する文化が醸成されます。その結果、離職率は低下し、組織への信頼感も強化され、長期的なパフォーマンスの向上につながります。
したがって、「静かなる退職」を脅威として一方的に拒絶するのではなく、それを現代社会の変化を映し出す鏡として活用することが、経営者と人事に求められている姿勢なのです。
産業医・人事が取るべき対応
「静かなる退職」をネガティブに捉えるのではなく、組織として柔軟に対応していくことが今後の経営には不可欠です。重要なのは、この現象を「怠け」や「問題行動」とみなすのではなく、労働観の変化として理解し、それに合わせた制度や文化を整えることです。
- 業務量と評価制度の見直し
成果を出すために「自己犠牲」が前提となっていないかを確認する。 - キャリアの多様性を尊重
「昇進したい人」と「現状維持でよい人」を分け隔てなく評価する制度設計が必要。 - メンタルヘルス支援の強化
燃え尽き予防や心理的負担軽減のため、産業医やカウンセラーによる定期的な面談を導入する。 - マネジメント層の意識改革
「従業員は企業に尽くすべき」という古い価値観を改め、成果と健康の両立を指導する。
まず第一に、業務量と評価制度の見直しが欠かせません。従業員が成果を出すために「自己犠牲」を前提とした働き方を強いられていないかを冷静に点検する必要があります。長時間労働や休日出勤を当たり前とする評価基準は、静かなる退職を加速させる最大の要因となり得ます。むしろ、効率的に成果を上げた人や、限られた時間内で高いパフォーマンスを発揮した人をきちんと評価できる仕組みを設けることで、従業員は「過剰に働かなくても認められる」という安心感を持ち、組織への信頼感が高まります。
次に、キャリアの多様性を尊重する姿勢が必要です。企業は従業員に対して「上を目指すこと」だけを唯一の正解として押しつけるべきではありません。昇進を望む人には挑戦の機会を与え、現状維持を希望する人には安定した環境を保障する、といった柔軟な制度設計が求められます。これは「成長意欲のある人だけを評価する」のではなく、「それぞれの価値観やライフステージに応じた貢献の形」を認めることです。こうした配慮があることで、従業員は「自分の選択を尊重してくれる会社だ」と感じ、結果的に定着率やエンゲージメントが向上します。
三つ目に、メンタルヘルス支援の強化が欠かせません。静かなる退職の背景には、燃え尽き症候群や心理的負担の蓄積があります。産業医やカウンセラーによる定期的な面談を取り入れることで、従業員の不調を早期に発見し、必要なケアにつなげることができます。とくに「不調を声に出すことが恥ずかしい」と感じる人も多いため、気軽に相談できる窓口や、匿名で利用できるサポート体制を整えることが重要です。企業が従業員の心身の健康に責任を持つ姿勢を示すことで、従業員は安心して働き続けることができるようになります。
最後に、マネジメント層の意識改革が必要不可欠です。静かなる退職を理解せず、「従業員は企業に尽くすのが当然だ」という古い価値観に固執する管理職が存在する限り、改革は進みません。むしろ管理職自身が「成果と健康の両立」を意識し、自らが率先してワークライフバランスを実践することで、現場に良い影響を与えられます。部下に過剰なコミットメントを求めるのではなく、成果の質を正当に評価し、柔軟な働き方を認める姿勢を示すことが、組織全体の意識を変える第一歩となります。
まとめ
「静かなる退職」は怠けの象徴ではなく、新しい労働観の表現です。働きすぎによる犠牲を拒み、個人の幸福とキャリアを再定義しようとするムーブメントでもあります。
企業にとっては脅威であると同時に、持続可能な組織文化へと変革するチャンスです。Z世代の価値観を理解し、柔軟な労務管理とメンタルケアを導入することが、これからの企業競争力を左右すると言えるでしょう。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長







