「自然は飛躍しない(Natura non facit saltum)」 ——カール・フォン・リンネ
分類学の父リンネはそう述べましたが、こと神経生理学のミクロな世界において、自然は驚くべき「飛躍」を成し遂げています。 それが「跳躍伝導(Saltatory Conduction)」です。
私たち医師が神経学的診察で打鍵器を使い、患者の膝蓋腱反射を見るとき、そこには電気的な信号の伝達が起きています。しかし、その伝達速度をご存知でしょうか? 最も速い有髄神経(Aα線維)であっても、せいぜい秒速60〜100メートル程度。時速に換算すれば新幹線より遅く、F1カー程度のものでしょう。
一方で、私たちが日常的に使用しているコンピュータの中を走る電気信号は、光速に近い速度(秒速約30万キロメートル)で駆け巡っています。 単純なスペック比較をするならば、人間の神経系は、最新のシリコンチップに比べて数百万倍も「遅い」ケーブルで配線されていることになります。
ここには巨大な問いが横たわっています。 なぜ、これほど遅延だらけのハードウェアを持ちながら、人間の脳はスーパーコンピュータですら及ばない複雑な文脈理解や、創造的な思考を瞬時に行うことができるのか? その秘密の一端は、神経線維に施されたある「絶縁体」の構造に隠されています。
髄鞘というイノベーション
神経細胞(ニューロン)から伸びる軸索は、電気信号を伝えるケーブルの役割を果たします。 進化の初期段階、このケーブルは剥き出しの状態(無髄神経)でした。無髄神経における信号伝達は、ドミノ倒しのようなものです。隣り合う細胞膜のイオンチャンネルが順番に開いていき、少しずつ脱分極が進んでいく。これは確実ですが、極めて遅い。秒速0.5〜2メートル、人が歩く速度と変わりません。
このままでは、大型の捕食者から逃げるための反射神経も、高度な思考も持ち得ない。そこで脊椎動物が獲得したのが「髄鞘(ミエリン鞘)」という絶縁体です。 軸索をシュワン細胞やオリゴデンドロサイトといったグリア細胞が幾重にも巻きつき、電気を通さない脂質の膜で覆ってしまったのです。
しかし、完全に絶縁してしまえば電気信号は止まってしまいます。 そこで生命は、等間隔にわずかな隙間を残しました。これこそが、1878年にフランスの病理学者ルイ=アントワーヌ・ランビエが発見した「ランビエ絞輪(Nodes of Ranvier)」です。
絶縁が生む「加速」のパラドックス
ランビエ絞輪の部分には、電位依存性ナトリウムチャンネル(Na+チャンネル)が、通常の細胞膜の数千倍という高密度で集積しています。 一方で、髄鞘で覆われた絶縁部分にはチャンネルはほとんど存在しません。
信号がやってくると、絞輪部分で爆発的なNa+の流入(活動電位)が起きます。発生した電流は、絶縁体である髄鞘部分を一気に飛び越えます。絶縁されているがゆえに、電流は膜の外に漏れ出ることなく(漏洩電流の最小化)、そして膜容量(電気を貯める性質)が小さいために充電時間をロスすることなく、次の絞輪へと高速で流れるのです。── と考えられています。笑
「隣を順番に起こす」のではなく、「遠くの隣人へボールを投げ渡す」。 これにより、伝達速度は数十倍から百倍へと跳ね上がりました。これを跳躍伝導と呼びます。 『カンデル神経科学』等の教科書を開けば、このメカニズムは物理学的なケーブル理論(Cable Theory)として説明されますが、私にはこれが生命による「物理法則へのハッキング」に見えてなりません。素材の伝導性を変えることができないなら、構造を変えることで速度を稼ぐ。まさに進化の創意工夫です。
イカの巨大軸索 vs ヒトの髄鞘
この「工夫」がいかに重要かは、イカと比較するとよく分かります。 イカもまた、素早い動きを必要とする生物ですが、彼らは髄鞘を持ちません。その代わり、彼らは「ケーブルを太くする」という力技に出ました。それが「イカの巨大軸索(Giant Axon)」です。 電気抵抗を下げるために直径を最大1mm近くまで巨大化させたのですが、それでも速度は秒速20メートル程度に過ぎません。
もし人間が、現在の脳の処理速度を「無髄神経」のまま達成しようとすれば、神経束は巨大になりすぎて、脊髄の太さは大木の幹ほどになり、頭蓋骨は家一軒ほどの大きさが必要になるという試算さえあります。 絶縁と跳躍。この省エネかつ高効率なシステムのおかげで、私たちはこのコンパクトな頭蓋の中に、宇宙に匹敵するシナプス-ネットワークを収納できているのです。
「遅さ」がもたらす思考の深み
話を冒頭のパラドックスに戻しましょう。 秒速60メートルという「遅い」伝達速度で、なぜ私たちは光速のコンピュータより賢く振る舞えるのか。
一つの解は「並列処理」にあります。 コンピュータ(フォン・ノイマン型アーキテクチャ)は、超高速ですが基本的には直列処理です。一つのタスクをものすごい速さでこなしますが、一度に一つしかできません。 対して人間の脳は、遅い素子を数千億個つなぎ合わせ、超並列的に駆動させています。視覚、聴覚、記憶、感情の想起が同時に発火し、互いに干渉し合う。
そしてもう一つ、私はあえて「遅さ」そのものに意味があるのではないかと考えています。 信号が脳内のネットワークを巡る間に生じる微細な遅延(レイテンシー)。これがあるからこそ、異なる回路からの信号が時間のズレを持って統合され、そこに「ゆらぎ」や「韻」のようなものが生まれるのではないでしょうか。
カントは『純粋理性批判』において、時間と空間を我々の認識の形式と呼びました。 もし脳内の信号伝達が光速で、すべての情報が時間差ゼロで処理されてしまったら。そこには「迷い」も「情緒」も、そして「意識」という持続的な現象も生まれ得なかったかもしれません。
ランビエ絞輪という小さな隙間を、電気信号がジャンプするその一瞬。 その物理的な時間の積み重ねの中に、私たちの「精神」という亡霊が宿っている。 医学的唯物論の立場に立てば、魂とは言うなれば「Na+イオンのダンス」に他なりませんが、そのダンスの舞台装置があまりにも精巧であるがゆえに、私たちはそこに神性を感じてしまうのかもしれません。
遅いからこそ、深い。 不完全な生体部品(ウェットウェア)を使いこなし、跳躍伝導というハックで物理的限界を超えようとした生命の歴史そのものが、最高にクールです。
「進化はエンジニアのように完璧な設計図を描くのではなく、ブリコルール(修繕屋)のようにあり合わせの材料でやり繰りする」 ——フランソワ・ジャコブ(ノーベル生理学・医学賞受賞者『進化の遊び(La Logique du Vivant)』より)
それは、完璧に計算された設計図よりもなお美しい、「至高のブリコラージュ(Bricolage)」なのかもしれません。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院






