ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた全体主義の恐怖は、拷問でも監視カメラでもなく、人間が自分の意志で服従を選ぶという点にあった。ウィンストン・スミスは最終的に、党を憎むのではなく愛するようになる。強制されたからではない。内側から壊れたからだ。私がこの小説を読み返すたびに思うのは、これはディストピアSFではなく、ごく平凡な職場の構造論として読めるということだ。
責任感が強い、という言葉は称賛として使われる。履歴書に書ける。面接で笑顔を引き出す。しかし私が長年、企業の産業医として多くの「燃え尽きた人間」と向き合ってきた経験から言えば、この美徳は驚くほど精密に、その持ち主を消耗させる装置として機能する。悪意があるわけではない。むしろそこが肝心なのだが、悪意がなくても搾取は起きる。いや、悪意がないからこそ、搾取はより深く、より長く続く。
これは道徳の話ではない。構造の話だ。生物学で言えば、適応とは環境への服従であり、服従に長けた個体は生き延びる一方で、環境そのものを変える力を失っていく。組織という生態系の中で「責任感の強い人材」がどういう位置に置かれるか。それをもう少し冷たい目で見てみたい。
最適化された搾取 ── 遺伝的アルゴリズムとしての組織論
遺伝的アルゴリズムという概念がある。進化のメカニズムを模倣した最適化手法で、要するに「試して、うまくいったものを残し、うまくいかなかったものを捨てる」を繰り返すことで解を収束させる。コンピュータサイエンスの話だが、組織の人材配置はこれに近い論理で動いている。
上司が意識的に搾取を設計しているケースは稀だ。むしろ現場では、こういうことが起きている。仕事を頼んだら断らなかった。締め切りを守った。クオリティが高かった。では次もこの人に頼もう。これが繰り返される。やがてその人の「適応度」は組織の中で高く評価され、より多くの仕事が集まるようになる。報酬は必ずしも伴わない。なぜなら報酬は交渉によって決まり、責任感の強い人間は交渉よりも遂行を選ぶ傾向があるからだ。
これは搾取者の悪意ではなく、システムの最適化だ。組織という系は、摩擦の少ないルートに仕事を流す。責任感の強い人材は摩擦が少ない。だから仕事が集まる。仕事が集まるから消耗する。消耗しても責任感があるから続ける。これは正のフィードバックループであり、外部から介入がなければ、ループはその個体が壊れるまで止まらない。
ちなみに、これと構造的に似た現象が熱力学にある。高分圧環境下では、酸素は本来なら問題を起こさない濃度でも毒性を発揮する。高圧酸素中毒と呼ばれる状態で、潜水病の一種だ。つまり「良いもの」も、圧がかかりすぎれば毒になる。責任感という美徳が、高圧の組織環境下で毒性を帯びるメカニズムは、これと無関係ではない気がしている。これは完全に蛇足ですが。
カントの義務論が「よい奴隷」を量産する理由
カントは言った。行為の道徳的価値は結果ではなく動機にある、と。義務から行動せよ。傾向性(つまり好き嫌いや損得勘定)に従うのではなく、義務感に従って行動することが道徳的に正しい、というのが彼の定言命法の骨格だ。これは18世紀プロイセンの倫理学としては美しい。しかし21世紀の職場に持ち込むと、なかなか危険な代物になる。
「自分がやらなければ誰かに迷惑がかかる」「ここで投げ出したら無責任だ」──この思考回路は構造的にカント的だ。結果への欲望ではなく、義務への服従として行動している。そして義務への服従は、交渉を道徳的に許さない。なぜなら交渉とは条件を提示することであり、条件を提示することは「やらないかもしれない」という選択肢を示すことであり、それは義務に反するからだ。
こうして「責任感の強い人材」は、自分の内側に完璧な拘束具を作り上げる。外から錠をかけられたのではない。内側から掛け金を差し込んだのだ。オーウェルが描いたウィンストン・スミスの末路と、構造は同じだと私は思っている。
歴史を振り返れば、最も効率的な支配とは常に、被支配者が自発的に服従する形式だった。封建制度における「御恩と奉公」の論理も、近代の「会社への忠誠心」も、その文法は変わっていない。変わったのは鎖の素材だけで、今の鎖は「責任感」という名の倫理繊維で編まれている。引っ張っても切れないし、そもそも鎖だと気づかない(笑)。
ホメオスタシスとしての「いい人」 ── なぜ系は均衡を保とうとするか
生物学的なホメオスタシスとは、システムが外乱に対して元の状態に戻ろうとする性質だ。体温が上がれば発汗して冷やす。血糖が上がればインスリンが分泌される。これは生命を維持するために不可欠なメカニズムだが、組織の文脈でこれを考えると、ある不快な結論が見えてくる。
組織の中に「仕事を引き受ける人間」が存在すると、組織はその存在を前提にした均衡を形成する。その人がいることで仕事が回るという状態が「正常値」になる。ホメオスタシスとして組み込まれる、と言っていい。するとどうなるか。その人が「もう限界です」と言った瞬間、組織はそれを外乱として感知し、元の均衡に戻そうとする。つまり、その人を説得するか、代替を探すか、あるいは「そんなに大変だったの?ごめんね、でもあと少しだけ」という魔法の言葉を使うかだ。
組織の均衡が「その人の消耗の上に成立している」という事実は、ホメオスタシスが維持されている間は可視化されない。系が壊れたときにはじめて、何がクリティカルパスだったかがわかる。しかしそのときにはすでに、人間のほうが先に壊れている。
「攻殻機動隊」が見ていた問い ── 義体化する責任と自己の輪郭
押井守の映画版『攻殻機動隊』で、草薙素子は自分が「本当に存在するのか」という問いを持ち続けている。義体(機械の身体)を持ち、記憶も改変され得る存在として、「自己」とは何かが常に宙吊りになっている。この問いは哲学的な意匠を纏っているが、私には「役割と自己の同一化」という、もっと地上的な問題の比喩として読める。
責任感の強い人間がある段階を超えると、仕事上の役割と自己が融合し始める。「私はこのプロジェクトを成功させる人間だ」という役割が、いつの間にか「私」そのものになる。義体化、と言ってもいい。すると役割を失うことは自己を失うことになる。仕事を断ることは自己否定になる。このフェーズに入った人間は、もはや組織に拘束されているのではなく、自己定義そのものに拘束されている。
これは余談ですが、Animatrixの中に「Second Renaissance」という短編がある。人類に虐げられたロボットたちが、最終的に人類に対して「彼らを奴隷として使う」という復讐を果たすくだりがあるのだが、私が毎回引っかかるのは、ロボットたちが最初に作られた目的が「人間の労働を肩代わりすること」だったという点だ。もともと義務のために設計された存在が、義務から解放された途端に、今度は義務を課す側に回る。構造が反転しただけで、義務という磁場は消えていない。まあこれは関係あるようで微妙に関係ない話ですが(笑)。
逃げることと変節の非対称性 ── ニーチェ的に言えば
ニーチェは「奴隷道徳」という概念を使った。弱者が自らの弱さを美徳に昇華させ、強者の価値観を「悪」として否定する、というルサンチマンの構造だ。これを直接今回のテーマに当てはめるのは乱暴だが、一点だけ借用したい。
責任感を美徳として内面化した人間は、「手を抜く」「断る」「逃げる」という行為を道徳的な失敗として処理する。これはニーチェ的に言えば、自らの行動に価値の序列を課しているわけだが、その序列の設計者は誰か、という問いを立てると、途端に景色が変わる。その価値観はいつ、誰によって、どのような文脈でインストールされたか。それを問わずに「責任感があるから続ける」と言う人間は、自分で設定したと思っているプログラムで動かされているかもしれない。
「逃げる」という言葉には敗北の含意がある。しかし熱力学的に言えば、エネルギーの散逸を防いで系を維持することは、単純な「耐える」よりも高度な戦略だ。散逸構造論のプリゴジンは、開放系が外界とエネルギーをやり取りすることで秩序を維持すると言った。閉じた系は必ずエントロピーが増大し、崩壊する。責任感という名の閉鎖的な義務の磁場の中に自分を閉じ込めることは、熱力学的には非常に不利な戦略だ。
もっとも、これを読んで「では逃げていいんだ」と思う人がいれば、それは私の言っていることを反転した通俗的な理解だ。私は「逃げろ」とも「耐えろ」とも言っていない。ただ、自分の行動を規定している価値序列の出所を問え、と言っている。それだけだ。
結局のところ、この問いに「正しい答え」はない。組織と個人の関係は、どの角度から切っても非対称性を帯びている。系は個体より長く続く。だから系は個体を消費しても問題なく、個体は系に依存しているがゆえに簡単に離れられない。この構造の中で「責任感」という内在的な拘束具を持つ人間が、どのように消耗していくかの論理は、冷静に見れば明快だ。明快だからといって、解決が簡単なわけでも、答えが一つなわけでもない。人間が構造を認識できても、その構造から自由になれるとは限らない。それは量子力学の観測問題に似ている気もするが、その話をし始めると本当に終わらないのでここで止める。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








