「ナンパなんて不真面目なことを医者が語るな」と言う人がいるだろう。
だが私から言わせれば、それこそがこの国の医学教育の致命的欠陥である。
むしろいま日本の医学部に最も必要なのは、ナンパである。
そう確信しているからこそ、今日この言葉をあえて真顔で使いたい。
まず断っておくが、ここで言う「ナンパ」とは単なる軽薄な誘い文句のことではない。
ナンパとは、限られた時間・情報・空間の中で、相手の反応・関心・防衛機制を読み取りながら、言葉と所作で信頼を形成し、関係を生み出す極めて硬派な行為である。
この短い定義だけで、聡明な方々はすでに医療面接そのものであることに気づくはずだ。
ナンパには診療に必要なすべてがある
ナンパは医療の縮図である。
傾聴、共感、観察、介入、間合い、そして勇気。
道端というオープンな環境で、見知らぬ他者を相手に“自主的OSCE”を繰り返す。
しかも、相手を選べない。職業も年齢も価値観も、生きてきた社会的背景もバラバラ。
こんなに多様性に富んだ“模擬患者”に出会える機会、他にあるだろうか?
そして、失うものは何もないのだ。あるとすれば、それは自分自身に対する自尊心だけだろう。
そしてこの“自尊心”というやつが、精神科医の立場から見ても、実に曲者だ。
医学部に入ってくるような人間は、自尊心が肥大化しすぎている。
彼らが持つのは、自分の“理想像”を守るための鎧としての自尊心であり、壊れることを極端に恐れる脆いガラスの自我=アイデンティティだ。
たとえば、成績が良かった、手術が上手い、論文が通った、教授に褒められた──
そういった“医療者としての成果”が自尊心の主成分になっていくと、いつしか「自分は否定されてはならない存在だ」という奇妙な特権意識が生まれてしまう。
この傾向は昨今の医療界全体にも蔓延している。
反省をしない上級医、患者の痛みに共感しない医師、カンファレンスで他者の失敗にしか反応しない指導者──みんな「自尊心が壊れることへの極度の恐怖」に支配されている。
だからこそ、ナンパだ。
ナンパは、この肥大化した自尊心を最もシンプルに、真正面から叩き潰してくれる行為である。
どんなに学歴があろうが、臨床経験が豊富であろうが、テストで満点を取ろうが、
その瞬間、目の前の女性をたった数十秒で笑わせ、心を動かせなければ、それは「敗北」である。
そしてこの敗北は、じつに爽快だ。
「自分が何者であるか」という幻想を剥がし、「いま、相手の心をどれだけ響かせられたか」という一点でしか価値が決まらない世界。
これは、医療の本質とも奇妙に重なる。
診察室の中でも、患者はあなたの肩書きではなく、“いま、目の前でどう接しているか”だけを感じとっている。
ナンパとは、そういった自己破壊を通して、自己再構築を繰り返す行為であり、それが本質的な醍醐味なのだ。
常に砕かれ、常に立ち上がる。
それが“初心”を保ち、他者への謙虚さを失わないための、秘訣なのだ。
間合いを知らぬ医師は、ナンパをせよ
精神科的に見ても、ナンパは極めて高度な精神操作である。
まず相手の「拒否感」を察知し、それに過剰反応せず、“心理的余白”を残したままアプローチする能力が求められる。
これができないと、ナンパは失敗するし、診察もまた失敗する。
実際、多くの医学生・医師は“間合い”が壊滅的に下手だ。
距離が近すぎて引かれたり、逆に遠すぎて信頼されなかったり。
ナンパには、この“適切な間”を見極める実地訓練が詰まっている。
しかもこれは、一朝一夕では身につかない。理論だけではなく極めて実践的行動を伴った知行合一の為せる技なのである。
私自身、この10年間、仕事の合間や出張先、帰り道、休日の街角など、あらゆる隙間時間で息をするようにナンパをしてきた。一方、誤解してほしくない。
私が言う「ナンパ」とは、よくある“夜にお酒を飲んで女の子を引っ掛ける”ような破廉恥な行為ではない。
むしろその真逆だ。
朝の光の中で、シラフのまま、たったひと言で他人と繋がろうとする行為(朝ナン)。
相手が誰であろうと関係ない。若者でも、高齢者でも、男性でも女性でもいい。
道端でふと立ち止まり、一期一会の対話が始まる──その偶発的なつながり自体が、私にとってのナンパなのだ。
気づけば一万人以上と会話していた。そのうち何人かとは、驚くほど深い話もしたし、男女問わず人生を共に歩むことになった者もいる。
他人の心に触れようとする試みの中で、私は何度も失敗し、時に恐怖し、時に感動し、そして思った。
「これは論文にすべきではないか」と。
実際に「ナンパにおける身体的距離の変化と自己開示の関連性及び視点の力学」について、研究計画書まで書いたことがある。
けれど倫理審査は……まあ、通らなかった。笑
医学教育にナンパ科目を
真面目な話、医学部には「ナンパ論」の講義があっていいとさえ思う。
名称はもう少し学術的にするなら、「対人接近戦術論」「予期しない他者との出会いにおける即時的コミュニケーション」などでもよい。
だが重要なのは、“患者役の俳優”との台本ありきの演習ではなく、台本なき生身の人間との出会いの中で、臨機応変に反応する練習が必要だということだ。
現在の医学部教育は、あまりに構造化されすぎていることが逆に弊害となっており、多くの教育プログラムが形骸化している。
「決まった症状、決まった対応、決まった正答」
だが現実の患者はそんな型通りに喋ってはくれない。医学書や教科書を読んでもどこにも書いていないような応答をしてくる。現在の医学部において、そういった一つ一つの生きた知識と学問を習得する機会が皆無なのである。
だからなのだ。
童貞コミュ障医師という、ある意味で“現代日本医学教育における最高傑作”が、今日もどこかの医学部で量産され続けている。
学年1位、TOEFL満点、USMLE一発合格(普通にすごい笑)──そんな輝かしい履歴を持ちながら、
目を見て話すと顔が引きつり、患者に呼びかけるとき声がうわずり、
看護師との雑談では10秒以上間が持たない。
挙句の果てには、「あ、そ、じゃ、また……」と小走りで医局に逃げ帰る。
そんな“人類と接触しない系”の医師が、着実にキャリアを積み上げていくのが、今の医療現場だ。
いや、別にモテなくてもいいんだ。
恋愛経験が乏しくても、それだけで人格を否定するつもりはない。
ただ、他人との距離感を測ることができない人間に、“人を診る仕事”を任せるのは、どう考えてもリスキーだ。
私自身、医学部時代からそういう連中には人間的な怖さを感じていた。
知識はある。実技もこなす。けれど、“ヒトの肌感”がない。
つまり、人間の“湿度”を知らないのだ。
ナンパは、その“湿度”の訓練である。
汗ばんだ空気、言葉の間、目線の揺れ、断られるときの空気の張りつめ方──
そういうものに日常的に晒されてきた医師は、診察室でも自然と“間”を読むことができる。
だから私は声を大にして言いたい。
日本の医学生たちよ、たまには電カルを閉じて、街へ出ろ。
病態生理だけじゃなく、人間そのものを学べ──まずは、声をかけるところから。
人間が持つ、不合理さ、曖昧さ、不安、沈黙、そして拒絶や恐怖──
それはすべて、医学部の中ではなく“生身の接触”の中にこそ露わになる。
麻雀もいい。小説や映画も悪くない。
だが私にとって、それらを最もフィジカルで、最もプリミティブで、そして最もフェティッシュに教えてくれたのは──
やはり、ナンパだった。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長






