1956年、ハリー・ハーローはアカゲザルの子どもを、針金でできた「母親」とタオル地でできた「母親」のあいだに置いた。針金の母親はミルクを出した。タオルの母親は何も出さなかった。サルは、ミルクを飲むとき以外はずっとタオルの母親にしがみついていた。この実験は「愛着」の生物学的基盤を示した、と教科書には書いてある。私はそれよりも別のことが気になる。サルは「安全基地」を求めていたのであって、「情報提供者」を求めていたのではなかった、という事実のほうに。
1on1という制度が日本の職場に広がって久しい。シリコンバレー由来のマネジメント手法として輸入され、「部下の話を聞く時間」として定着し、そしてほぼ例外なく、どこかで形骸化する。その診断として最もよく語られるのが「質問の質が悪い」というものだ。「どうですか」ではなく「最近何が難しいですか」、「頑張ってください」ではなく「何があれば動きやすくなりますか」──コーチングの文脈から借用された問いの技術が、研修として提供され、1on1の「質」を改善しようという試みが繰り返される。
私はこの診断が根本的に間違っていると思っている。質問の内容は、せいぜい二次的な問題だ。もっと正確に言えば、質問を改良しようとする行為そのものが、問題の本質から目を逸らすための、組織的な防衛機制として機能している場合がある。(これは少し言い過ぎかもしれないが、少し言い過ぎるくらいでちょうどいい話というものが世の中には存在する。)
では何が問題なのか。言葉が発射される空間の構造、と私は呼んでいる。もう少し正確に言えば、その部屋に漂う「権力の電磁場」とでも表現すべき何かが、言語コミュニケーションのすべてを事前に書き換えてしまっている、ということだ。
言語は中立な媒体ではない──「発話行為論」が教えてくれる不快な事実
オースティンは1962年の講義録「言語と行為」の中で、言葉には「発語内行為」──つまり言葉を発すること自体が何かを「する」という側面があると述べた。「約束する」「命令する」「宣言する」は、情報を伝達するのではなく、それ自体が行為として現実を変える。この視点から1on1を眺めると、少々不穏な景色が見えてくる。
上司が「何でも話していいよ」と言うとき、それは情報の提供ではない。それは宣言だ。だが宣言の効力は、発話者の権威と文脈に依存する。裁判官が「無罪」と宣言するから無罪になる。隣の席のおじさんが「無罪」と言っても何も変わらない。同じように、「何でも話していいよ」という発話が本当に「何でも話せる空間」を生み出すかどうかは、その言葉を発した人間が、部下の評価・処遇・人事を握っているかどうかという文脈に、完全に依存している。
上司は評価者だ。この一点において、1on1という「対話の場」は、設計の段階で致命的な矛盾を抱えている。「安全に話せる相手」と「自分を評価する相手」は、神経回路のレベルで別カテゴリに収納される。扁桃体はこの区別を非常に精密に行う。意識の上では「この上司は良い人だ、話せる」と思っていても、皮膚コンダクタンスや心拍変動は正直で、評価者の前では身体は微細な防衛態勢に入る。これは意志の問題でも信頼の問題でもない。哺乳類の進化的遺産だ。
これは完全に蛇足ですが、ポリヴェーガル理論を提唱したステファン・ポージェスが「安全の神経生物学」と呼んだ概念がある。腹側迷走神経系が活性化している状態──すなわち「安全である」と身体が判断している状態──でなければ、高次の認知機能も、創造的な対話も、脆弱性の開示も起動しない。評価者の前でこの状態に到達することは、訓練によって可能ではあるが、デフォルトではない。質問を工夫する前に、この生理学的事実と向き合うべきだろう。蛇足終わり。
「観察される存在」は自己を改変する──フーコーの一望監視施設と1on1の構造的同型性
ジェレミー・ベンサムが設計し、ミシェル・フーコーが「監獄の誕生」の中で解剖したパノプティコンの原理はシンプルだ。中央の監視塔から全房が見渡せる円形監獄において、囚人は「見られているかもしれない」という可能性だけで自己規律を内面化する。実際に看守がいるかどうかは関係ない。観察の可能性が、行動を変える。
1on1は、善意によって設計されたパノプティコンだ。上司は「話を聞きたい」と思っている。部下は「話を聞いてもらえる」と期待する。だが構造として、そこには「観察する者」と「観察される者」の非対称性が厳然と存在する。この非対称性の中で発された言葉は、送信者によって事前に検閲されている。「この発言は評価にどう影響するか」という計算が、意識的にであれ無意識的にであれ、言語の選択を制限する。
結果として何が起きるか。部下は「話せる範囲の本音」を話す。上司はそれを「本音」として受け取る。両者とも誠実にコミュニケーションしているつもりでいる。だが実際に交わされているのは、相互に検閲された、高度に編集された言語の交換だ。それをいくら「質の高い質問」で掘り下げようとしても、掘れる土は最初から限られている。
これを私は「構造的浅さ」と呼びたい。個人の誠実さや技術の問題ではなく、関係の構造そのものが生み出す、避けがたい浅さだ。
情報理論的に見た「伝達の損失」── ノイズは回線ではなく送信者の内部で発生する
クロード・シャノンの情報理論では、通信システムの品質は「チャネル容量」と「ノイズ」によって規定される。送信者がいて、メッセージがあり、チャネルがあり、受信者がいる。ノイズが大きければ伝達は歪む。この図式で1on1を見ると、多くの組織は「チャネル(=質問の技術)」を改良しようとしている。
だが私の観察では、最大のノイズは送信者の内部で発生している。部下が「実は上司のマネジメントに問題があると感じている」という情報を持っているとき、その情報はそもそも送信されない。エンコードの段階で消去される。チャネルがいかに優秀であっても、送信されなかった信号は届かない。
これを解決しようとして「心理的安全性を高める」というアプローチが登場する。エドモンドソンの研究を引用し、Googleのプロジェクト・アリストテレスを参照し、心理的安全性こそが高パフォーマンスチームの基盤だと説く。正しい。まったく正しい。だが心理的安全性は、1on1の質問を工夫することで生み出せるものではない。それは関係の歴史と組織の文化の、長期的な堆積によってのみ形成される地質構造だ。ワークショップで一週間では変わらない。研修で一日では変わらない。
つまり、1on1の「質を上げよう」という試みは、多くの場合、原因を飛ばして症状に介入しようとしている。解熱剤を飲んで「治療した」と言っているのに近い。熱は下がるかもしれない。感染は続いている。
それでも「会話」に何かを期待するとしたら── ハーローのサルが教えた別の回路
ここで少し立ち止まる。私はこれまで、1on1という制度を解体する方向で話を進めてきた。では1on1は無意味か、廃止すべきか、という問いに対して、私の答えは「そう単純でもない」だ。
ハーローのサルに戻る。サルが求めていたのは情報でも分析でも正確な質問でもなかった。タオルの感触、すなわち「そこにいる」という存在の確認だった。1on1が機能する稀なケースを観察すると、そこに共通しているのは質問の技術ではなく、上司が「何かを引き出そうとしていない」という状態だ。評価しようとしていない。改善させようとしていない。ただ、そこにいる。
これを「プレゼンス」と呼ぶ人がいる。私はもう少し構造的に説明したい。上司が「情報収集者」あるいは「問題解決者」として1on1に臨むとき、それは相手の神経系に「処理されようとしている」という信号を送る。この信号は防衛反応を誘発する。逆に、上司が純粋に「聞いている」──何も引き出さない、何も変えようとしない、ただ存在している──という状態のとき、奇妙なことが起きる。部下のほうから、深い話が出てくる。
ちなみに、これは禅の公案に少し似ている。「何もしないことが最大の介入になる」という逆説。老子の「無為にして為さざるなし」が1on1の文脈でこれほど機能するとは、老子も思っていなかっただろうが(笑)。
これは技術に落とせない。研修で教えられない。「聞くふりをしながら何も引き出そうとしない技術」を練習するのは、矛盾している。できるかどうかは、その人間が本当に他者に興味を持っているかどうか、という人格の問題に収束する。つまり最終的に、1on1の品質は「質問の設計」の問題ではなく「その人間が何者か」という問題だ。これは組織にとって非常に不都合な結論だが、不都合であることと間違っていることは別だ。
言語の限界と、それでも言語を使わざるを得ない理由
ウィトゲンシュタインは「哲学探究」の中で、言語ゲームという概念を導入した。意味は文脈と使用の中にある。同じ言葉が、異なる言語ゲームの中では異なる意味を持つ。「大丈夫ですか」という問いが、診察室で発せられるのか、廊下で通りすがりに発せられるのか、評価面談の冒頭で発せられるのかによって、受け取られ方はまったく異なる。
1on1という「場」は、一種の言語ゲームとして機能している。そのゲームのルールを、参加者は明示されることなく共有している。「ここでは本音を言ってよいことになっている」「でも評価に響くことは言わないほうがよい」「上司は聞いているふりをしているが、実は特定の答えを期待している」──これらは誰も言語化しないが、全員が知っている。攻殻機動隊の素子が「ゴーストのささやき」と呼んだものに近い。明示されない情報が、実は最も強く行動を規定する。
では言語を捨てるか。そういうわけにもいかない。人間は言語なしに複雑な意図を共有できない。タオルの感触だけでは組織は動かない。私たちは言語の限界を知りながら、言語を使い続けるしかない生き物だ。これはある種の悲劇だが、悲劇であることを知っている悲劇は、少しだけ軽くなる。気がする(笑)。
問いの技術を磨くことは無意味ではない。ただそれは、より大きな問題の表面を整えることに過ぎない。1on1が機能しない最大の原因は、問いの内容ではなく、その問いが発射される空間の権力構造であり、その空間を共有する二人の人間の、関係の歴史の堆積であり、そして最終的には、「他者に本当に興味を持っているか」という、研修では教えられない何かだ。
それを改善する方法を私は持っていない。持っていないが、問題の所在を正確に見ることは、誤った解決策に膨大なリソースを投下し続けることを、少なくとも止めるかもしれない。それで十分だと思っている。たぶん。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








