META: 評価制度は公正な計測装置として信仰されている。だが、その構造を解剖すると、測られているのは「人」ではなく、評価者側の不確実性への恐怖だという逆説が浮かぶ。これは組織論ではなく、認識論の問題だ。
ベンサムが一八世紀末にパノプティコンを設計したとき、彼の関心は囚人の矯正にあった。中央の監視塔から全房が見通せる構造の監獄──見られているという意識が自己規律を生む、という発想だ。フーコーはこれを二十世紀に掘り起こして「規律・訓練」の象徴として読み直したが、私がいつも引っかかるのは少し違う点だ。パノプティコンを設計したのは、結局のところ「見られる側」への恐怖ではなく、「見えない」ことへの設計者の不安ではないか、という問いだ。
評価制度を眺めるとき、私は毎回このパノプティコンの逆像を思い出す。一般に評価制度は「人材を正確に測るための装置」として提示される。目標設定、コンピテンシー評価、360度フィードバック、数値化されたKPI。それらを積み重ねれば、人間の能力と貢献度が解像度高く可視化される、という信仰だ。この信仰は根強く、経営者も人事も、その信仰の上に多大なコストをかけ続けている。
だが少し立ち止まって考えてほしい。そもそも「人を測る」とはどういう行為か。測定とは本来、対象と物差しの間に客観的な対応関係が存在することを前提とする。温度計が体温を測れるのは、水銀柱の膨張と気温の間に物理的な法則が成立しているからだ。では、「この部下の今期の貢献度は72点」という命題の背後に、同様の法則が存在するか。私の観察では、存在しない。存在するのは法則ではなく、評価者の不安が生み出した「測れている」という幻覚だ。
これは評価制度を批判したいわけではない。いや、少し批判したいか(笑)。ただより正確に言えば、私はこの現象を認識論的な問題として眺めている。評価という行為が何を対象にしているのかを問い直したとき、見えてくる構造が面白い。そしてその構造は、組織の病理を語るよりも先に、人間の認知そのものの歪みを語っている。
測定という行為の不純さ──ハイゼンベルクからマネジメントへ
量子力学に不確定性原理というものがある。粒子の位置を正確に測ろうとすると運動量が不確定になり、運動量を正確に測ろうとすると位置が不確定になる。これは測定技術の限界ではなく、自然の根本的な性質だとハイゼンベルクは主張した。つまり「観測する」という行為そのものが対象を撹乱するという話だ。
人事評価においても、構造的に同じことが起きていると私は思っている。評価されることを知った人間は、評価される行動に最適化する。評価されない行動は消える。評価制度が精緻であればあるほど、測定対象である「その人の能力・態度・貢献」は測定の枠組みによって変形される。これはグッドハートの法則とも接続する──「指標が目標になった瞬間、それは良い指標ではなくなる」。
ちなみに、これはソビエト連邦の計画経済でも如実に現れた話で、釘の生産量をノルマにすれば巨大で役に立たない釘が大量生産され、重量をノルマにすれば鉛のように重い釘が量産された。人間は測られた瞬間に、測定系に対して最適化するように動く。これは批判でなく、単純に人間という生物の仕様だ。
したがって、評価制度が精緻化されるほど、実は「素の人間」から遠ざかっていく。評価制度は人を測ろうとして、評価制度への適応度を測ってしまう。この構造的な逆説を設計者がどれだけ自覚しているか、私は懐疑的だ。
管理職の不安という変数──感情が「客観的指標」に偽装されるプロセス
産業医として無数の職場を見てきた経験から言うと、評価の歪みが最も顕著に現れるのは「なぜかこの人は低く評価される」という事例だ。数値上の成果は十分にある。周囲の評判も悪くない。にもかかわらず、直属の上司からの評価が一貫して低い。このパターンを分解すると、多くの場合、評価者側の心理的脅威感が底流にある。
管理職というポジションは、構造的に「不確実性との戦い」を強いられている。部下が自分より優秀かもしれない、自分の判断が間違っているかもしれない、組織内での自分の必要性が問われるかもしれない、という不安が慢性的に存在する。評価という行為は、この不安を処理するための装置として機能し始める瞬間がある。部下を低く評価することは、不安を遠ざける行為として機能するのだ。
これは完全に余談ですが、ダンバー数という話がある。人間が安定的に社会的関係を維持できる上限はおよそ150人で、これは霊長類の大脳新皮質のサイズと相関する、というロビン・ダンバーの仮説だ。面白いのは、この制約が現代の大組織においても消えていないという点で、150人を超えた組織では「誰が誰を信頼しているか」の情報処理コストが爆発的に増える。評価制度はこの情報処理コストを外部化しようとする試みでもある。つまり「信頼できるかどうか」という感覚的・直感的な判断を、数字に変換することで処理しやすくしようとしている。だが感覚を数字に変換するとき、変換元の感情(不安・脅威・好意・嫌悪)も一緒に数字に乗ってしまう。ここに戻る(笑)。
つまり評価フォームに記入された72点や「Bマイナス」という記号は、部下の能力ではなく、評価者が部下に対して感じた心理的安全度の逆数に近い何かである可能性がある。これは陰謀でも悪意でもない。評価者自身もそれを知らないまま、客観性の外衣を纏ったフォームに「感じたこと」を転写している。
数値化という神学──「測れる」ことへの信仰の起源
近代における「測定への信仰」の起源を辿ると、十七世紀の科学革命まで遡る。ガリレオとニュートンが自然を数学の言語で記述できることを示して以来、「数値化できる=真実に近い」という等式が西洋思想の深部に刻まれた。この等式はその後、心理学、経済学、社会学へと侵食し、ついには人間そのものを数値化しようとする衝動へと連鎖した。
IQというものがある。知能を単一の数値に圧縮しようとする野心的な試みで、一九〇〇年代初頭にビネーが開発した。当初は教育支援のための道具として考案されたが、すぐに人間の「優劣」を測る装置として転用された。測定という行為は、対象を序列化したいという欲望と不可分に結びつく傾向がある。なぜなら、序列化は不確実性を圧縮するからだ。「誰が上で誰が下か」が決まれば、意思決定のコストが劇的に下がる。人事評価もこの構造の延長にある。
ただし、ここで注意したいのは、私はこれを「悪」として断罪したいわけではない、という点だ。不確実性を圧縮したいという欲望は、生物として合理的だ。霧の中で輪郭を見つけようとすることは、サバンナで生存した哺乳類の基本的な戦略だ。問題は、その戦略が「人間を測る」という文脈に適用されたとき、測定対象の複雑さが測定ツールの解像度を根本的に上回っているにもかかわらず、私たちがそれを気づかないふりをしていることだ。
「公正な評価」という概念の位相論的な不安定さ
「公正な評価を実現したい」──組織の経営者からこの言葉を聞くたびに、私はある種の静かな問いを抱く。公正、とはここで何を意味しているのか。
哲学的に言えば、公正には少なくとも二つの異なる概念が競合している。手続き的公正──プロセスが透明で一貫しているかどうか。結果的公正──アウトカムが実態に即しているかどうか。ロールズの格差原理はこの二軸を整理しようとした試みだが、現実の組織においてこの二軸は多くの場合、衝突する。プロセスを完全に透明にしようとすると、評価者は評価行動を最適化し始め、アウトカムがむしろ歪む。完全な結果的公正を目指せば、「誰がそれを判定するのか」という問いが再帰的に浮上し、無限後退する。
一九八四年にオーウェルが描いた二重思考(doublethink)は、矛盾する二つの信念を同時に保持する能力を指していたが、現代の評価制度に携わる人々は、ある意味でこれを日常的に行っている。「この評価は客観的だ」という信念と「評価とは本来主観的なものだ」という認識を、同時に保持しながら運用している。この二重思考が崩れると、制度そのものへの信頼が失墜するため、崩れないよう慎重に保護されている。
では、測定とは何のためにあるのか──構造の外から問う
攻殻機動隊の草薙素子は、自分の記憶がゴーストであるという確証を求め続けた。ゴーストとは「個人の本質」だ。彼女の問いは結局、「私を私たらしめているものは何か」という問いへと収束する。評価制度も構造的には同じ問いを抱えている──「この人をこの人たらしめているものを、どう可視化するか」という問いだ。
だが草薙素子が最終的に辿り着いたのは、ゴーストは単独では存在できないという逆説だった。他のゴーストとの接続・融合・変容によってのみ、ゴーストは自らの輪郭を知ることができる。これを組織の文脈に置き直すと、人を「測定する」という一方向的な行為によって人の本質が可視化されるという発想そのものが、問いの立て方として間違っているのかもしれない。
測定という行為が本来向き合うべきなのは、「この人の現在地と可能性の関係性」であり、それは測定者と被測定者の間の相互作用の中にしか存在しない。つまり、評価制度が機能するとすれば、それは「測る装置」としてではなく、「対話を構造化する装置」としてだ。この転換は言葉の上では些細に見えるが、実際には評価という行為の哲学的な基盤を根底から変える。
ただ、私がここで「だからこうすべきだ」と言うつもりはない。構造を見ることと、構造を変えることは別の行為だ。そして構造を見ることには、それ自体の価値がある。パノプティコンに入る前に、その設計図を一度見ておくこと。それだけで、ある種の自由が生まれる余地がある。そうであればいいな、と思う程度には、私はこの問いに愛着を持っている。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








