働き方改革という名の儀式──形骸化する組織に宿る「呪術的思考」の構造

1986年、チャレンジャー号が打ち上げから73秒で空中分解した。調査委員会が後に明らかにしたのは、NASAのエンジニアたちがOリングの欠陥を事前に把握していたという事実だった。問題は技術的無知ではなく、「これまで爆発しなかった」という経験が「爆発しない」という信念に変換されていたことだ。ファインマンが公聴会で氷水に浸したOリングを取り出して見せた場面は、科学史における最も皮肉な瞬間のひとつだと私は思っている。統計的に有意な「問題のなさ」と、物理的な「問題のなさ」は、まったく別物だ。だが人間の認知系はこの二つを同一視する方向に強く引っ張られる。

働き方改革の話をする前に、なぜ私がチャレンジャー号から入ったかを少し説明しておく。産業医という立場で多くの組織を見てきて気づいたことがある。形骸化した制度が生き続けるメカニズムと、「問題が表面化していないこと」を「問題がないこと」と読み替える認知バイアスは、構造的に同型だということだ。これは人を責めたい話ではない。人類の認知アーキテクチャそのものの話だ。

毎年4月になると、多くの企業で「働き方改革推進室」が資料を作り、管理職研修が行われ、残業時間の目標値が設定される。そしてその多くが、1年後にひっそりと形骸化する。これを「経営者のコミットメント不足」と説明する人は多い。それは間違いではないが、それだけを言うのは地図の縮尺が荒すぎる。もっとミクロな場所に、もっと構造的な問題が潜んでいる。

「制度」と「儀式」のあいだにある薄い膜

人類学者のブロニスワフ・マリノフスキーは、トロブリアンド諸島の漁師たちを観察して面白いことを記録している。潟での漁には呪術を用いず、外洋での危険な漁には必ず呪術的儀式を行うというのだ。彼の解釈は「呪術とは不確実性への心理的対処である」というものだった。制御できない不安を、制御可能な行動に変換することで、人は行為の主体性を取り戻す。

働き方改革における多くの施策が最終的に儀式化するのは、同じ構造を持つからだと私は見ている。残業時間の申告フォームを整備する。ノー残業デーを設定する。有休取得率をKPIに入れる。これらはすべて、「制御可能な形式的行動」だ。組織が本当に変わるかどうかという、制御困難で不確実な問いに対して、制御可能な形式的手続きを完遂することで「やった感」を得る。マリノフスキーが見た呪術師と、エクセルに実績を入力する人事担当者は、認知的に驚くほど近い場所にいる。

これは余談になるが、レヴィ=ストロースがのちに「呪術的思考」と「科学的思考」の差異を問い直したとき、彼は呪術を「劣った思考」と位置づけることを拒否した。呪術は別の論理、別の体系性を持つ思考だと言った。私はこれが働き方改革の文脈でも重要だと思う。儀式化した施策は、「機能しない施策」なのではなく、「別の機能を持つ施策」だ。それは組織の緊張を一時的に解除し、上下の関係者全員が「やっている」という共同幻想を維持することで、組織の安定性に貢献している。機能していないのではなく、違う何かを機能させている。

ホメオスタシスとしての形骸化

生物学の話をする。ホメオスタシスとは、生体が内部環境を一定に保とうとする機能のことだ。体温が上がれば発汗し、血糖値が上がればインスリンが分泌される。このフィードバック機構は、系の安定を守る上で精巧に設計されている。だが同時に、この機構は「変化への抵抗」としても働く。

組織もまた、一種のホメオスタシスを持つ。長年かけて形成された仕事の流れ、権力構造、暗黙の評価基準、誰も口にしないが全員が知っているルール。これらは組織の「体温」を一定に保つ機構として機能している。外部から制度を導入したとき、組織はそれを排除するか、無毒化して吸収するかの二択を迫られる。形骸化とは後者だ。制度という異物を、組織の既存の体温に合わせて変形させ、安定状態を回復させる過程だ。

だから「なぜ経営者が本気でやっても形骸化するのか」という問いへの答えの一部はここにある。経営者の意図が不純だから形骸化するのではない。組織が持つホメオスタシスの力が、経営者の意図より強い場合に形骸化する。これは道徳の問題ではなく、システムダイナミクスの問題だ。

ちなみに、薬物療法で言えば、これは「耐性」の問題に似ている。同じ薬を同じ量で投与し続けると、生体はそれに合わせてレセプターの感度を変える。抗うつ薬の効果が時間とともに薄れる「タキフィラキシー」という現象がある。制度も同様に、同じ形式での繰り返しは組織を「慣れさせる」。慣れた組織に同じ刺激を与えても、もはや何も動かない。(笑)これは少々自虐的な比較だが、精神科医として処方する薬と、コンサルタントが処方する施策の末路が構造的に似ているというのは、どこか業の深い話だと思う。

「測定できるものだけを改革する」という認識論的罠

ハイエクは「知識の問題」と呼んだ。中央計画経済が機能しない理由として、彼が挙げたのは経済主体の悪意でも無能でもなく、分散した局所的知識を中央が収集し処理しきれないという認識論的限界だった。企業における働き方改革もこの罠に落ちる。

残業時間は測定できる。有休取得率は測定できる。会議の数は測定できる。だから改革の指標はこれらになる。しかし、「誰が何を恐れているか」は測定できない。「上司の機嫌の予測可能性」は測定できない。「この会社でミスをしたときに何が起きるかという経験的知識」は測定できない。測定できるものだけを改革しようとすると、測定できないものが改革の抵抗勢力になる。

攻殻機動隊のバトーが言うような話をすると──組織における「ゴースト」の部分は、設計図には載っていない。素子が機械の体を持ちながら「ゴーストの囁き」を感じるように、組織も公式の制度とは別の層で動いている。形式的な働き方改革が変えられるのは、身体の部分だけだ。ゴーストは別の場所にある。

歴史が繰り返すのではなく、構造が繰り返す

1848年、イグナーツ・ゼンメルウェイスはウィーンの産科病棟で、医師が手を洗うだけで産褥熱の死亡率が激減することを発見した。彼はデータを持っていた。統計的に明らかな証拠を持っていた。それでも医学界に受け入れられず、最終的に精神病院で死んだ。

なぜか。当時の医学パラダイムでは、病気は「瘴気」によるものとされていた。手を洗うことが命を救うという発見は、「医師の手が患者を殺している」という含意を持つ。それは当時の医師のアイデンティティを根底から揺るがす知識だった。人は、自分のアイデンティティを脅かす情報を、たとえ証拠があっても拒否する。組織もそうだ。

働き方改革が形だけに終わる企業の多くに共通しているのは、改革の内容が組織の中核的な自己認識、つまり「自分たちはこういう会社だ」「優秀な人間はこういう働き方をする」という深層の信念に触れるとき、その信念に合わせて改革が変形させられるということだ。ゼンメルウェイスの発見が「瘴気説」に合わせて無視されたように。これは意識的な抵抗ではない。認知的な免疫反応だ。

それでもなお、という問い

ここまで書いておいて、では何をすればいいのかという話を私はしない。それはこの文章の射程外だ。というより、「何をすればいいか」を問う前に、「何が起きているか」の解像度を上げることの方が、少なくとも今この瞬間には価値があると思っている。

カミュは「反抗」という概念において、不条理に対して意味を問い続けることそのものに価値を見出した。シーシュポスは岩を山頂に運び続け、それがまた転がり落ちることを知っている。にもかかわらず、カミュは彼を幸福な人間として描いた。形骸化し続ける改革の中で働き続ける人間に、私は時々シーシュポスを重ねる。笑えない話だが、笑えないからこそ見続ける価値がある。

ゲノムの観点から言えば、生命は38億年かけて「変わらないことで生き残る戦略」と「変わることで生き残る戦略」の両方を洗練させてきた。ホメオスタシスも変異も、どちらも生命の本質的な属性だ。組織が変化を拒もうとすることも、変化しようとすることも、同じ源泉から来ている。どちらが「正しい」かではなく、どちらが今この環境で機能するかという問いだけがある。

形骸化した働き方改革を眺めながら私が思うのは、そこにある失敗の痛みよりも、その失敗の構造の精巧さだ。人間の認知が、組織の免疫が、これほど見事に「変わらない」ための装置を作り上げているという事実に、ニヒルな感嘆を覚える。(笑)もっとも、それが誰かの過労死の背景にあるとき、感嘆している場合ではないのだが。根拠のある絶望の上にしか、まともな変化は立てない。そう思っている。

── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。

著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。

近澤徹 医師の写真

医師監修:精神科医 近澤 徹

Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。

  • 医療法人鳳應会 理事長
  • 北海道大学医学部卒
  • 慶應義塾大学病院
  • 東京女子医科大学病院 研究員
  • 名古屋市立大学病院 客員研究員
  • 日本医師会認定産業医 / 精神科医
  • 株式会社Medi Face 代表取締役医師
  • 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
  • Z産業医事務所 代表医師
  • Medi Lex 代表医師
  • 須賀法律事務所 顧問医師
  • 日韓美容医学学会 常任理事
  • FRAISE CLINIC 統括医師
  • 日比谷セントラルクリニック 副院長
  • EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
  • アイエスクリニック六本木 統括医師
  • ルナビューティークリニック池袋 統括医師
  • 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院

編集部

Medi Face Journal編集部は、医療・テクノロジー・キャリア・ウェルビーイングといった領域を横断し、“いま本当に知るべきこと”を掘り下げて伝える専門メディアチームです。 医師・研究者・編集者・エンジニアなど、異なる背景を持つメンバーが集い、精神医療から産業ヘルスケア、医療人材のリアルまで、多角的な視点で「医療という営み」の本質に迫ります。

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