メンタル不調者がいない職場という「清潔な地獄」──恒常性という名の檻について

META: メンタル不調者が出ない職場を「健全」と呼ぶとき、私たちは何を隠蔽しているのか。ホメオスタシスが生体に必須であるように、組織にも均衡維持機構が働く。だがその均衡が、個体の犠牲の上に成立しているとしたら。

生体には恒常性がある。体温、血糖値、血圧──これらは外乱が加わっても一定範囲に保たれるよう、無数のフィードバック機構が動いている。教科書的には「健康の証」として描かれる概念だが、私がずっと引っかかっているのは、この恒常性という機構が「何かを犠牲にして成立している」という事実を、教科書があまり強調しないという点だ。たとえば低酸素環境に置かれた人体は、赤血球産生を増やし、末梢血管を収縮させ、心拍数を上げて酸素供給の見かけの安定を保つ。数値上、「恒常性は維持されている」。だが細胞レベルでは、すでに壊死が始まっているかもしれない。

組織も、これとまったく同じ構造をもっている。

「うちの職場はメンタル不調者が出たことがない」という言葉を、私は何度か聞いたことがある。そのたびに、奇妙な不安感を覚える。不調が出ないのは、不調になる前に人が去っているからかもしれない。あるいは、不調を不調と認識できない文化が根付いているからかもしれない。あるいは──そしてこれが最も厄介なのだが──不調を感じる感度そのものが、組織によって丁寧に削られているからかもしれない。

今回書きたいのは、「メンタル不調者が出ない職場は危ない」という啓蒙的なメッセージではない。そういう記事はすでに世の中に溢れている。私が考えたいのは、もっと構造的な問いだ。すなわち、「健全に見える」ということが、なぜ健全の証明にならないのか、ということについて。

沈黙は平和の記録ではなく、検閲の記録である

1984年、ジョージ・オーウェルの描いた全体主義国家オセアニアには、「ニュースピーク」という言語があった。語彙を意図的に削減し、反体制的な思考そのものを文法的に不可能にする言語だ。「自由」という言葉が存在しなければ、自由への渇望は概念として結晶化できない。思想の犯罪は、思想を持つ前に語彙の段階で封殺される。

職場における「不調の沈黙」も、これと同型の構造を持つ場合がある。「弱音を吐くな」「根性が足りない」「みんなしんどいのは一緒だ」──こうした言語環境に長期間置かれた人間は、やがて「しんどい」という感覚を「しんどい」として言語化できなくなる。感覚は消えていない。ただ、その感覚に名前をつける回路が、社会的に遮断されているのだ。外側から見ると、不調を訴える者がいない。だから「健全」に映る。だが内側では、オセアニア市民と同じことが起きている。

これは比喩でも誇張でもなく、神経科学的に見ても整合する。情動の調節には言語化が深く関与しており、感情を言語として表出するプロセス(アフェクト・ラベリングと呼ばれる)が、扁桃体の過活動を抑制する機能を持つことは複数の研究で示されている。言語化できない感情は、処理されない。処理されない感情は、身体と行動に滲み出る。それが不眠であり、過食であり、突然の退職であり、或いは何の予告もない自死だ。

ホメオスタシスの維持コストを誰が払っているか

先ほどの生体の比喩に戻る。組織というシステムが「恒常性」を維持するとき、そのコストは必ず誰かが払っている。熱力学の第一法則を持ち出すまでもなく、エネルギーは保存される。どこかで見かけ上の均衡が保たれるなら、それはどこか別の場所でエントロピーが増大しているということだ。

職場のメンタルヘルスの文脈でいうと、「組織の安定」というホメオスタシスを維持するコストは、多くの場合、最も声を上げにくい立場の人間が払う。新卒、非正規、外国籍、障害を持つ者、あるいは単純に「繊細」と形容される人々。彼らが自分の不調を持ち越したまま静かに適応するか、静かに去るかすることで、組織の数値上の健全性は保たれる。これは搾取ではなく、システムの自然な作動だ。システムに悪意はない。ただ、均衡を維持するようにできているだけだ。

これは完全に蛇足ですが、進化生物学における「群れの安定性」の議論に近いものがある。群れとしての生存率を最大化するために個体の死が「許容」される現象──たとえばアリのコロニーにおける兵隊アリの自己犠牲的行動──は、個体レベルの視点と集団レベルの視点で、まったく異なる評価を受ける。個体は死んでいる。集団は安定している。どちらが「正解」かという問いは、どちらの解像度でシステムを見るかによって答えが変わる。組織論も同じ問いを内包している。そしてたいていの経営指標は、集団レベルの解像度だけで設計されている。

「不調者ゼロ」は、測定誤差の産物である

産業医として多くの組織と接してきた経験から言えることがある。「メンタル不調者がいない職場」は存在しない。あるのは「メンタル不調者として可視化されていない職場」だけだ。これは挑発ではなく、統計的な話として聞いてほしい。

精神障害の生涯有病率は、文化や国による差異はあれど、おおむね人口の20〜30%程度に収まる。気分障害、不安障害、依存症、パーソナリティ障害──これらを合算すると、5人に1人から3人に1人は何らかの精神医学的状態を経験する計算になる。仮に50人規模の組織があったとして、生涯にわたって誰一人メンタルの不調を経験しないということは、確率論的にほぼありえない。

にもかかわらず「うちには不調者がいない」という組織が存在するとしたら、起きていることは概ね三つのどれかだ。第一に、不調者が休職や受診という形で「カウントされる前に」退職している。第二に、不調者が不調を職場に開示していない(開示できない文化がある)。第三に、管理職が不調のサインを認識する訓練を受けておらず、そもそも見えていない。いずれも「測定系の問題」だ。不調がないのではなく、不調が観測されていない。量子力学的な言い方をするなら、波束が収縮する前に系の外に出ている、とでも言えばいいか(笑)。

苦情と逸脱が、システムの免疫として機能するという逆説

免疫学に「炎症」という概念がある。発熱、腫脹、疼痛──これらは不快だが、病原体への応答として必要な現象だ。炎症を完全に抑えると、感染を制御できなくなる。抗炎症薬の使いすぎが免疫抑制につながるように、不快な症状を早期に「消す」ことが、必ずしも治癒を意味しない。

組織における不調の訴え、不満の表明、逸脱的な行動──これらは多くの場合、「問題」として処理される。しかし別の見方をすれば、これらはシステムの歪みを顕在化させるシグナルだ。不満を言える人間がいる組織は、少なくとも「言える場がある」という意味で、免疫機能が生きている。誰も何も言わない組織は、沈黙が平和を意味するのではなく、免疫が機能停止しているか、あるいは外来物質をそもそも受け入れない「閉じた系」になっているかのどちらかだ。

ちなみに、これは組織論の古典的な議論でもある。アルバート・ハーシュマンが1970年に提示した「退出・発言・忠誠」(Exit, Voice, Loyalty)の三類型では、組織への不満を持った個人がとりうる行動として、去ること、声を上げること、あるいは忠誠心から沈黙することの三つを挙げた。彼の洞察の核心は、「発言」という行為が組織の自己修正機能として働くという点だ。発言が封殺されると、人は退出するか、あるいは忠誠という名の諦念に落ち着く。静かな職場は、発言が排除され、退出者が補充され続けた結果として成立しているかもしれない。

清潔な地獄は、不快でないから気づかれない

Animatrixの一篇「Second Renaissance」の中に、機械たちが人間に支配されていた時代の描写がある(大雑把な要約で申し訳ないが)。その世界では機械は「問題なく動いている」ように見えた。だが内側では、怒りと悲嘆が蓄積されていた。不調が外に出ないことで、システムとしての秩序は保たれた。だから誰も気づかなかった。作品としての文脈はもちろん違うが、この構造の類似性を、私はときどき思い出す。

清潔な地獄の特徴は、不快でないことだ。 管理が行き届き、感情が整理されており、問題が表面化しない。数値は安定しており、離職率も平均的で、欠勤も少ない。それでいて、何かがおかしい。この「何かがおかしい」という感覚こそが、最も精緻な測定器だと私は思っている。が、その感覚を信頼することを、組織の文化が禁じている場合がある。

Phillip K. ディックではなくグレッグ・イーガンの「順列都市」的な言い方をするなら、シミュレーションが完璧であればあるほど、中にいる者はそれがシミュレーションだと気づかない。問題は現実の質ではなく、「問題があるかもしれない」という疑問を持てるかどうかだ。健全な疑問が封じられた環境は、どれだけ外観が整っていても、私には居心地が悪い(笑)。

メンタル不調者が出ない職場が「本当に健全」なのか「巧妙に不健全」なのかを判別する万能の方法を、私は持っていない。持っていたとしても、ここでそれを処方箋として書くつもりはない。ただ、「問題が見えない」という事実が「問題がない」の証明にならない構造について、少し長く考え続けてきた。

システムは均衡を好む。人間は不均衡の中で育つ。この非対称性は、どこかで必ず摩擦を生む。その摩擦が「不調者」という形で表れるか、「静かな退職」という形で表れるか、あるいは「突然の崩壊」という形で表れるかは、単に表現様式の違いに過ぎないのかもしれない。ならば、不調者がいない職場とは、崩壊を未来に先送りしている組織の別名ではないか──という問いを、私はまだ持ち続けている。

── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。

著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。

近澤徹 医師の写真

医師監修:精神科医 近澤 徹

Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。

  • 医療法人鳳應会 理事長
  • 北海道大学医学部卒
  • 慶應義塾大学病院
  • 東京女子医科大学病院 研究員
  • 名古屋市立大学病院 客員研究員
  • 日本医師会認定産業医 / 精神科医
  • 株式会社Medi Face 代表取締役医師
  • 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
  • Z産業医事務所 代表医師
  • Medi Lex 代表医師
  • 須賀法律事務所 顧問医師
  • 日韓美容医学学会 常任理事
  • FRAISE CLINIC 統括医師
  • 日比谷セントラルクリニック 副院長
  • EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
  • アイエスクリニック六本木 統括医師
  • ルナビューティークリニック池袋 統括医師
  • 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院

編集部

Medi Face Journal編集部は、医療・テクノロジー・キャリア・ウェルビーイングといった領域を横断し、“いま本当に知るべきこと”を掘り下げて伝える専門メディアチームです。 医師・研究者・編集者・エンジニアなど、異なる背景を持つメンバーが集い、精神医療から産業ヘルスケア、医療人材のリアルまで、多角的な視点で「医療という営み」の本質に迫ります。

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