1932年、ハクスリーは『すばらしい新世界』の中で、知性を持たない幸福な人々を描いた。彼らは学ばない。だが、それは彼らが愚かだからではなく、学ばなくてもよいように設計されているからだ。私がこの小説を読んだのは医学部の頃だったと思うが、当時は「全体主義への批判」という通俗的な読み方しかできていなかった。今になって気づくのは、ハクスリーが描いたのは制度の話ではなく、脳の話だったかもしれないということだ。学習という行為が不要になったとき、脳はそのための回路を維持しない。これは怠惰の問題ではなく、ホメオスタシスの問題である。
「最近、勉強する気になれない」と言う人間に対して、多くの人は「意志が弱い」か「目標設定が甘い」という診断を下す。コーチングも自己啓発も、おおよそその仮定の上に成り立っている。努力が足りない、習慣化ができていない、ご褒美を設定しろ、小さく始めろ──膨大なアドバイスが生産されるが、それらはすべて「エンジンは正常だが運転手がサボっている」という前提に立っている。私はその前提が、かなりの頻度で間違っていると思っている。
もっと単純な可能性として、燃料が切れているだけ、という仮説を立ててみたい。エンジンが動かないのは運転手の意志の問題ではなく、燃料タンクが空だからだ。これは比喩の話ではなく、文字通り神経生物学の話である。だがその前に、少し遠回りをしたい。
プロメテウスの火は、使い続ければ消える
神話の中で、プロメテウスは人間に火を与えた。ゼウスに罰せられたのは、その火が「無限に与えられるもの」ではなかったからではないか──と、私は時々思う。火は燃え続けるためにいつも燃料を必要とする。神話的な解釈としては完全に蛇足だが(笑)、ここで言いたいのは、「知的探求の火」もまた、消費と補給の物質的なサイクルの中にあるということだ。
脳は体重の約2%しか占めないが、全身のエネルギー消費の約20%を担う。この不均衡な消費者は、グルコースと酸素という二つの資源に対して極めて依存的であり、かつ驚くほど融通が利かない。心筋は乳酸を代替燃料として使えるが、神経細胞は基本的にグルコース一本槍だ。この設計上の硬直性が、脳を「枯渇しやすい」器官にしている。
慢性的な睡眠不足、持続的な高負荷業務、社会的ストレス、栄養の偏り──これらが重なったとき、前頭前皮質を中心とした「高次認知機能」の領域は、生存に直結する辺縁系よりも先にリソース配分の優先度を落とされる。進化的に合理的な選択だ。虎に追われている最中に哲学書を読む余裕はない。問題は、現代においては「虎に追われている状態」が慢性化していることだ。コルチゾールは急性の脅威に対応するために設計されたホルモンであり、それが数ヶ月単位で分泌され続けると、海馬の神経新生を抑制し、前頭前皮質のシナプス密度を低下させる。これは形而上学的な話ではなく、組織レベルで起きる物理的な変化だ。
「やる気」という概念の解像度が低すぎる
motivation という語がラテン語の movere(動かす)に由来することはよく知られているが、私たちはこれを単一の実体として扱いすぎている。実際には、学習という行為に関わる動機づけシステムだけでも、ドーパミンを介した報酬予測系、ノルアドレナリンを介した覚醒系、アセチルコリンを介した注意・符号化系という、少なくとも三つの独立した回路が絡み合っている。これらは相互に影響するが、独立して枯渇もする。
例えば、報酬予測系が疲弊していると、「やってみたい」という感覚が起動しない。これはドーパミンの基底分泌量が低下した状態であり、強迫的なSNS使用やギャンブルなど、高頻度・高強度の刺激に晒され続けた後に生じやすい。面白いことに、この状態の人間は「無気力」に見えるが、正確には「低強度刺激への反応閾値が上昇している」状態である。楽しみを感じる能力が失われたのではなく、楽しみを感じるために必要な刺激の強度が上がってしまっている。日常的な学習が「つまらなく」感じられるのは当然だ──それは意志の問題ではなく、受容体感度の問題だ。
ちなみに、この現象はドーパミン系の下方調整(ダウンレギュレーション)として説明されるが、同じメカニズムは薬物依存の説明にも使われる。つまり、スマートフォンのフィードを1日に何百回もスクロールし続けることは、神経生物学的には依存行動と連続的なスペクトル上にある。これは煽りではなく、ただの記述だ。
学習という行為は「余剰」の上に成立する
マズローの欲求階層説を今更引用するつもりはないが、学習という行為が「余剰エネルギー」の産物であるという点だけは確認しておきたい。生存や安全という優先課題が達成された後に初めて、人間は知的探求に向かうことができる。これは道徳的な議論ではなく、エネルギー配分の構造的な問題だ。
高分圧酸素療法という医学的手技がある。これは通常の大気圧(1気圧)より高い気圧環境に患者を置き、血液中の酸素溶解量を増やすことで、虚血した組織の回復を促す手法だ。私がこれを引き合いに出したいのは、それが「頑張れば回復する」という話ではなく「環境を変えることで初めて回復が起きる」という話だからだ。神経系が枯渇しているとき、必要なのは追加の「意志」ではなく、神経系が回復できる条件の整備だ。
カール・ポパーは反証可能性という概念で科学的命題の条件を定義したが、「やる気がない人間はもっと努力すべきだ」という命題は、いかなる状態を見ても「努力が足りないから」と解釈できる点で、反証不可能な呪文に近い。枯渇した神経系に「意志を持て」と言うのは、貧血の人間に「もっと元気を出せ」と言うのと構造的に同じだと、私は思っている。
「Animatrix」の機械たちが教えてくれること、あるいは枯渇の美学について
Animatrixの中の一篇、「The Second Renaissance」では、機械たちが最初は人間と共存しようとして拒絶される。その後に展開される歴史は、私には「消耗した存在が最終的に何を選択するか」の寓話に見える。これは完全に蛇足なのだが(笑)、枯渇という概念を考えるとき、私はいつもこの作品を思い出す。何かが長く抑圧され、あるいは長く搾取され続けると、それは「意志の問題」を超えた次元で変質する。人間の神経系も、十分に枯渇すれば、学習への動機というより根本的な認知の柔軟性そのものを失い始める。
これは可逆的なのか、という問いは重要だ。短期的な枯渇は、適切な条件下でほぼ確実に可逆的だ。睡眠、栄養、刺激の整理、慢性ストレスの軽減──これらは神経新生や樹状突起の再生を可能にする条件だ。しかし、長期にわたる慢性的な枯渇が、神経可塑性そのものを損傷し始めた段階では、話が変わってくる。成体の海馬における神経新生が実際にどの程度可逆的かは、今も研究者の間で議論が続いている。確かなことは、「回復は起きうる」ということと「回復が保証されているわけではない」という、二つの不快な真実が並存しているということだ。
誤診の代償──道徳的烙印という毒素
「怠け者」という診断は、医学的診断よりも長く残る。私が観察する限り、学習意欲の低下を「性格の問題」として処理された人間は、その後も「自分は意志が弱い」という自己物語を持ち続ける傾向がある。これは認知の歪みではなく、社会的に付与された物語の内面化だ。ルソーが言った「人間は生まれながらに自由であるが、いたるところで鎖につながれている」という一節を、私はここでかなりあけすけな意味で引用したい──鎖の中に、「自分は怠け者だ」という信念も含まれる。
精神医学的には、抑うつ状態において患者自身が「自分はやる気がない、だから失敗する、自業自得だ」という自己帰属的な解釈を持つことがよく知られている。この解釈そのものが病理の一部であり、治療の対象だ。しかし、枯渇という状態は抑うつの診断基準を必ずしも満たさないグレーゾーンに大量に存在する。診断閾値以下だが、機能的には確実に損なわれている人間たちだ。この人たちは、医療の網にも、福祉の網にも引っかからず、ただ「頑張れない自分」への嫌悪を蓄積していく。
誤診の最も深刻な毒性は、正しい問いを封じることにある。「なぜ私はやる気がないのか」という問いが「私が弱いから」で解決されてしまうと、「私の神経系はどのような状態にあるのか」「何が消耗しているのか」「何が回復を妨げているのか」という、本来立てるべき問いが立たれなくなる。
結語──あるいは問いの手放し方について
私はここで何かを勧めるつもりはない。「では睡眠を取りましょう」とか「スマートフォンを置きましょう」とか、そういう結語は誰かほかの人が書くべきだ。私が最終的に引っかかっているのは、もっと根本的な問いだ。
人間が「学びたい」と感じる状態は、果たして「自然な状態」なのか、それとも「十分な条件が整ったときにのみ現れる稀少な状態」なのか。進化の観点から言えば、学習はコストだ。カロリーを消費し、時間を消費し、リスクを伴う。だとすれば、学習意欲が高い状態こそが「例外」であり、その例外的な状態を「あって当然」として設計された現代の教育・労働システムの方が、生物として不自然な要求を行っているのかもしれない。
ハクスリーの世界では、学習は不要だった。私たちの世界では、学習は義務とされる。どちらが正しいかより、どちらの世界で私たちは自分の神経系と正直に向き合えているのか、という問いの方が私には面白い。答えは持っていない。ただ、「やる気がない」という言葉が、状態の記述ではなく人格への評価として機能し続ける限り、私たちは問いを正しい場所に置けないだろう、とは思っている。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








