「許容限界」という概念は、工学の言葉だ。素材がどこまでの応力に耐えられるか、構造物がどこまでの荷重に持ちこたえるか——そういう話をするときに使う。ところが現代の日本では、この言葉がそのまま人間に適用されている。月80時間の時間外労働。それを超えると「過労死ライン」と呼ばれる。まるで金属の疲労破断点を語るように、人間の限界値が数値化され、行政指導の閾値に組み込まれている。
私がこれを初めて知ったとき、奇妙な感覚があった。驚きではない。むしろ、ある種の既視感だ。人類はずっとこれをやってきた。奴隷制度の時代、「この人数でこれだけの作業量をこなすには何時間必要か」という計算をした人間がいた。産業革命期、繊維工場の経営者たちは子供の労働時間を何時間まで認めるかを「効率」と「道徳」のトレードオフとして議論した。そのたびに、人間は数値の中に人間を押し込めようとした。月80時間というのは、その最新版に過ぎない。
ただし、「最新版」である点については少し評価してもいい。少なくとも、この国には今、過労で人が死んだときに「それは自己責任だ」とだけ言い切れない制度的な枠組みが存在する。1980年代以前、「働きすぎで死んだ」という概念そのものが法的には存在しなかった。脳梗塞や心筋梗塞で倒れても、それは「病気」であり「業務起因性」という発想自体がなかった。過労死という言葉が国際語(karoshi)になるほど日本の問題として世界に認識され、ようやく2014年に過労死等防止対策推進法が成立した。その意味では、月80時間という数字は「進歩の証」とも言えなくもない。言えなくもないが——私には、その数字がどうしても「安全限界」ではなく「法的責任の境界線」に見えてしまう。
ここからが本題だ。産業医として現場に関わってきた経験から言えば、月80時間という数字の持つ最大の問題は、その数字が「安全」を意味していないことではなく、その数字が「管理できた証拠」として機能してしまうことにある。書類の上で80時間を下回っていれば、とりあえず誰も怒られない。しかし、人間の疲弊は時計で測れない。
数値という幻想:閾値が生み出す「管理された死角」
疫学の話をする。過労死リスクと時間外労働の関係を調べた研究では、確かに月80〜100時間を超えると脳・心臓疾患の発症リスクが統計的に上昇する。これは事実だ。しかし統計とはそういうものだが、「月79時間では安全」という命題はどこにも存在しない。分布の話をしているのであって、個人の耐性の話をしているのではない。
人間の疲労回復能力には、遺伝的な個人差がある。睡眠の質、既往の疾患、家庭環境、通勤時間、職場の人間関係——これらすべてが「実効的な疲弊量」に影響する。月60時間の残業でも、睡眠が4時間しか取れない状態が続けば、身体への負荷は月100時間に匹敵することがある。逆に、月90時間でも週に一度きちんと休息が取れていて、仕事に強い意味を感じている人間が、必ずしも翌月倒れるわけでもない。生物系でよく言われることだが、ストレスとは応力であり、問題なのは応力そのものより、回復の機会が奪われることだ。骨だって、折れるのは荷重をかけたときではなく、微細骨折が積み重なって修復が追いつかなくなったときだ。
これは完全に蛇足ですが、「月80時間」という数字の起源を少し調べると、なかなか味わい深いことがわかる。この数字は主に1990年前後の労災認定事例の蓄積と、当時の医学的知見から「おおよそこのあたりから危ない」という経験則で設定されたものであり、RCT(無作為化比較試験)で厳密に検証された数値ではない。つまり、行政が運用できる「合理的な閾値」として設定されたのであって、「これ以下なら人は死なない」という生物学的根拠があるわけではない。この国の「安全基準」の多くが、科学的根拠よりも行政的便宜によって設定されているという構造は、放射線の年間被曝限度を巡る議論でも同じパターンを見た。(蛇足終わり)
問題を整理すると、月80時間という閾値は「これを超えたら問題がある」ではなく、「これを超えたら行政が動ける」という意味の数字だ。そしてこの二つの命題の間には、人が倒れるのに十分な隙間がある。
産業医という職の構造的矛盾、あるいはシュレーディンガーの安全管理
産業医制度についても、少し解剖しておきたい。産業医は、法律上は「労働者の健康管理を行う独立した医師」だ。しかし現実には、産業医は企業に選任され、企業から報酬を受ける。この構造がどういう力学を生むか、説明する必要はないかもしれない。
私が嘆きたいのは「不正直な産業医がいる」という話ではない。むしろ、善意ある産業医でも機能不全に陥る構造があるという話だ。月に一度の職場巡視と衛生委員会への出席。多くの企業では、産業医との関わりはその程度だ。月に数時間の関与で、何百人、何千人の「健康管理」ができるかと言えば、できるわけがない。できないのに、書類の上では「産業医による健康管理が行われている」という事実が存在する。この状態は、ちょうどシュレーディンガーの猫のように、「管理されているかもしれないし、されていないかもしれない」という重ね合わせ状態で、何か事故が起きるまで誰も箱を開けない。
2019年の働き方改革関連法施行以降、産業医の権限は強化された。就業者のデータを入手する権限が増え、企業への意見申述の根拠が明確化された。制度としては確かに前進した。しかしこれを言ってしまうと元も子もないのだが、産業医が書いた「就業制限の意見書」を無視した場合の企業への罰則は、驚くほど軽い。あるいは事実上、ない。意見を言う権限は増えた。しかしその意見が無視されたとき、医師には何もできない。処方箋を書いても、薬を飲ませる権限がない薬剤師のようなものだ(笑)。
「死の定義」を誰が書くか:法と医学の管轄争い
過労死に関する議論で、私がいつも引っかかることがある。それは「過労死」という概念の法的定義と医学的実態の間のズレだ。
法律上、「過労死」として認定されるには、業務との因果関係が証明される必要がある。脳・心臓疾患の場合は主に時間外労働の量が根拠になる。精神疾患からの自殺の場合は「心理的負荷評価表」に基づいて判断される。この評価表を見ると、ハラスメントや業務上の出来事が点数化されており、一定点数以上で「業務起因性あり」とされる仕組みだ。
ところで、人間の精神が崩壊するプロセスは、そんなに単純だろうか。カフカ的な不条理——「自分が何の罪を犯したかもわからないまま処罰され続ける」という状況は、どこにも「ハラスメント」という言葉なしに人を追い詰める。低強度の慢性的疲弊は、急性の高強度ストレスより長期的に深刻なダメージを与えることがある。睡眠の質の劣化、自律神経の慢性的失調、コルチゾールの持続的上昇——これらは、評価表の点数に現れない。法律は出来事を数える。しかし人間は状態として壊れる。
これは余談ですが、私が印象深いと思うのは、ジョルジュ・カンギレムが「正常と病理」の中で述べたことだ。彼は「病気とは規範の失敗ではなく、別の規範への移行だ」と言った。つまり、身体は常に何らかの「正常」を維持しようとしており、病気とはその規範が変わってしまった状態だ。過労死という現象を彼の言葉で解釈すれば、「社会が要求する労働量」と「個体が維持できる生理的規範」が完全に乖離したとき、身体は後者を捨てるか、あるいは崩壊するかという選択を迫られる。ホメオスタシスの失調というのは、つまりそういうことだ。(余談終わり)
境界線の内側で倒れる人間について
月80時間という数字の最大の残酷さは、繰り返すが、「それ以下なら問題ない」という誤解を合法的に生産することだ。
私が産業医として関わった事例の中に、月の時間外労働が常に70〜75時間という人間がいた。書類の上では「過労死ラインを下回っている」労働者だ。しかし彼は、不規則なシフトの中で睡眠が細切れになり、深夜帰宅と早朝出勤を繰り返していた。通勤が往復3時間。家に帰れば小さな子供がいる。食事はコンビニか社食。この状態が18ヶ月続いた。ある朝、彼はトイレで意識を失い、救急搬送された。幸い、後遺症はなかった。しかし労災申請の審査では、月の時間外が80時間を超えていなかったため、認定は困難だという話になった。
彼を「運が良かった」と言う人がいる。確かにそうかもしれない。しかし「運が良かった」という言葉の中には、「運が悪かった人間の話は書類の数字では救えない」という意味が含まれている。
ジョージ・オーウェルが1984で描いたのは、言語を操作することで現実を操作する権力の話だった。「二重思考」という概念だ。私が産業医の書類を書くとき、ときどきこれを思い出す。「月80時間未満=健康管理されている」という等式は、現実を正確に記述していない。しかし制度の中で機能するためには、この等式の中で考えなければならない。これは産業医個人の誠実さの問題ではなく、制度が内包する「二重思考」の構造だ。
それでも数字と戦う理由:根拠のある絶望の使い方
では、何もできないのかというと、そういう話をしたいわけでもない。
法律の限界を知ることと、法律を使い倒すことは、矛盾しない。月80時間という数字が「安全の証明」ではなく「行政が動ける閾値」だと理解していれば、その数字を下回ることに満足するのではなく、その数字の手前で個別の人間を見ることができる。産業医の仕事の本質は、書類を管理することではなく、書類の外にいる人間を見ることだと私は思っている。「思っている」と書いたが、これは理想論としての思考であり、全員が常にそれを実現できているとは言わない(笑)。
制度を「脱獄」するには、まず制度の構造を正確に知る必要がある。月80時間という数字が何のためにある数字なのかを理解した上で、その数字が照らせない暗部を意識的に見るという習慣が、制度の内側から制度を超える唯一の方法だと私は考える。それが産業医にとって、あるいは組織のマネジャーにとって、できる限界かもしれない。限界だとしても、その限界を自覚した上で働くことと、限界の存在すら知らずに働くことでは、結果が違う。
ただし、ここで希望を語りすぎると嘘になる。個人の努力で構造的問題を補完し続けることには、明確な限界がある。産業医一人が頑張っても、月に数時間の関与では救えない人間がいる。経営者が誠実であっても、業界構造が「倒れるまで働くことを競争優位にしている」状態では、個別の努力は焼け石に水だ。遺伝的アルゴリズムで言えば、局所最適解の問題だ。個々のエージェントがどれだけ賢く動いても、適応度関数そのものが間違っていれば、全体は間違った方向に収束する。
月80時間という数字は、その適応度関数の一部だ。そしてその関数は、まだ書き換えられていない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








