ジェレミー・ベンサムが1791年に設計したパノプティコンは、建築として実現することなく思想の領域に留まり続けた。円形の監獄の中央に監視塔を置き、囚人は常に見られているかもしれないという不確実性の中に置かれる。実際に誰かが見ているかどうかは問題ではない。見られているかもしれないという構造そのものが、人間の行動を規律する。フーコーはこれを「規律・訓練」の完成形として読み解いた。権力は暴力を必要としない。視線の非対称性だけで十分だ、と。
私がこのことを思い出すのは、だいたい1on1ミーティングの話を聞かされるときだ。
1on1は、2010年代のシリコンバレー発の「心理的安全性」ブームの中で組織論に流入し、今や日本のミドル規模以上の企業であれば当たり前のように実装されている。週次または隔週、上司と部下が30分から1時間、「オープンな対話」のために向き合う。設計思想は美しい。部下の声を拾う、成長を支援する、関係性を深める。そういうことになっている。
ところが実際に何が起きているかというと、多くの場合、それはパノプティコンの再発明だ。監視塔の設計図をスタートアップのロゴで塗り替えて、「心理的安全性」というラベルを貼った建築物が、今日もどこかの会議室に建っている。
なぜそうなるのか。善意が構造に敗北するメカニズムを、少し丁寧に考えてみたい。
権力の非対称性は、善意によって中和されない
1on1の設計において、最も重大な見落としがある。それは「上司と部下が向き合う」という行為が、そもそも権力の非対称性の上に成立しているという事実だ。評価権、人事権、業務命令権を持つ人間と持たない人間が、どれほど和やかな雰囲気の中で話していても、その関係の基底にある構造は変わらない。
これは上司の人格の問題ではない。上司が誠実であっても、部下に対して心から関心を持っていても、関係の構造が持つ重力は変わらない。物理学的に言えば、場の歪みは粒子の性質ではなく質量の配置によって決まる。善意は質量を持たない。
社会心理学の領域では、評価者の存在が被評価者の認知処理パターンを変容させることが繰り返し確認されている。ロバート・チャルディーニの一連の研究以前から、人間は観察されているという認識だけで、自己呈示のバイアスが強まる。これは欺瞞という意味ではない。意識的に嘘をついているわけではなく、神経系のレベルで情報の選別が起きている。1on1で「本音を話してください」と言われた瞬間に、人間の脳は本音の検閲を始める。これはほとんど反射的なプロセスだ。
つまり、1on1という装置には構造的な矛盾が内包されている。「安心して話せる場」を権力者が設計し提供する、というその行為自体が、安心を破壊するメカニズムになっている。贈り物として差し出された安全は、受け取った瞬間に債務に変わる。
「報告」が「対話」に偽装される瞬間の病理学
1on1が監視装置に転落する経路は、たいてい単純だ。
最初は純粋な対話として始まる。上司は部下の状態を気にかけている。部下も最初は少しずつ、自分の考えや困りごとを話し始める。ところが数回のセッションが経過すると、上司の側に「この時間で何かを把握しなければならない」という義務感が生まれる。あるいは組織からのプレッシャーとして、1on1の「成果」を問われるようになる。こうなると、対話は報告の形式を帯びてくる。進捗はどうか。課題はあるか。どんな支援が必要か。
これらの質問自体は悪くない。問題は、その質問が継続的に発せられることで、部下が「毎回答えを用意しなければならない場」として1on1を再定義し始めることだ。準備が始まる。話す内容を事前に選別する。ネガティブな情報は薄める。上司が聞きたそうなことを優先する。こうして告解室は、台本の読み合わせの場に変わる。
ちなみに、これと構造的に同じことは、神経科学における「観察者効果」としても記述できる。量子力学の文脈では測定行為が系の状態を変えるが、人間においてもモニタリングされていることの認知は、モニタリングされる行動そのものを変容させる。これが「ホーソン効果」と呼ばれるものの本質だろう。1920年代にウェスタン・エレクトリック社の工場で観察されたあの有名な現象だ。照明を明るくしても暗くしても生産性が上がった理由は、照明ではなく「研究対象として見られている」という事実だった。1on1はホーソン効果を週次で召喚している、とも言える。笑
心理的安全性の概念が持つ、見過ごされた前提条件
エイミー・エドモンドソンが「心理的安全性」という概念を整理したのは1990年代のことだが、この概念が日本の組織論に輸入されたとき、重要な前提が抜け落ちた。
エドモンドソンの研究の文脈において、心理的安全性は「上司に対して安心して話せること」ではない。それは「チームにおいて、対人リスクを冒すことが安全だという共有された信念」だ。この定義における主語はチームであり、安全の提供者は特定の権力者ではない。安全は関係性の中から発生するものであって、権力者が下位者に付与するものではない。
しかし日本における1on1の実装の多くは、「上司が部下に対して安全な場を提供する」というモデルで設計されている。これはエドモンドソンの理論の読み違いであると同時に、権力の非対称性をそのままにして安全を演出しようとするという、構造的な無理筋だ。
これは余談ですが、私は「心理的安全性」という言葉が企業研修の文脈で流通し始めた頃から、この語の命運についてある種の諦観を持っていた。概念は普及するにつれて摩耗し、元の形を失う。「ストレス」という語がセリエの提唱した精緻な生理学的概念から、「なんとなくしんどい」という日常語に変容したように。心理的安全性もまた、今や「上司が優しい」の言い換えとして使われている場面を頻繁に目撃する。概念の劣化は避けられないとしても、それが人間の具体的な苦しみに関わるものである場合は、少し慎重に扱いたい気持ちがある。
善意の管理者が自律を殺すまでの、ゆっくりとした過程
最も残酷なのは、これが悪意のある人間によって引き起こされないことだ。
1on1を通じて部下の自律性を侵食していく管理者の多くは、真剣にその部下のことを考えている。成長を願っている。困っていないか気にかけている。その善意は本物だ。しかし善意は、関与の頻度が上がるほど、相手の内的プロセスを外部化させるリスクを持つ。
行動生物学の文脈で言えば、これはオペラント条件付けの変形として理解できる。定期的な報告機会が存在すると、人間は問題を自己完結的に処理するモチベーションより、次の1on1で共有するという構造の中に問題を収納し始める。判断の前に上司に相談する。行動の前に承認を得ようとする。これは怠惰でも依存でもなく、繰り返し強化された環境への適応だ。有機体は与えられた環境に対して合理的に適応する。その環境が報告を求めるものであれば、報告者になることが最適解だ。
攻殻機動隊で草薙素子が問い続けたのは、「自分が自分であることの根拠は何か」という問いだった。あの問いの鋭さは、アイデンティティを外部との接続の中に置いた瞬間に、自己の境界が溶解し始めるという認識から来ている。1on1の文脈で言えば、自分の問題を上司との対話を通じてしか処理できなくなった人間は、自律的な判断の主体としての輪郭を少しずつ失っていく。それは目に見えないが、確実に起きている。
パノプティコンを解体する方法は、おそらく設計の話ではない
この話をすると、「では1on1をどう改善すればいいのか」という方向に思考が動く人が多い。頻度を下げるべきか。アジェンダを部下主導にすべきか。評価の話をしないルールを作るべきか。
私はその方向への回答を持っていない。というより、その方向への回答が問題を解決するとは思っていない。
フーコーはパノプティコンについて語るとき、建築の改修では規律権力は解体されないと示唆した。問題は監視塔の設計ではなく、「視線の非対称性が人間を規律する」という権力の作動原理そのものにある。1on1の問題も同様で、フォーマットを変えても、権力の非対称性と「定期的に把握される」という構造が残る限り、装置の本質は変わらない。
本当に問われているのは、組織がなぜ1on1を必要とするのかという問いだ。それは本当に個人の成長のためか。それとも組織が制御できない不確実性に対する、管理者の不安を和らげるための装置か。後者であるなら、1on1を改良しても問題は解決しない。不安の構造そのものが温存されるからだ。
私が観察してきた範囲では、1on1が機能している組織は、1on1の設計が優れているというより、1on1がなくても情報が流通し、判断が委ねられ、失敗が許容されている組織だ。そういう組織では、1on1は装置として機能する必要がない。ただの会話になる。ただの会話になったとき、それはもう監視ではない。
ベンサムの監獄が怖ろしいのは、監視塔に誰もいなくても機能することだ。視線の不在もまた、視線の可能性として内面化される。1on1も同じで、上司が全く悪意を持っていなくても、構造が「見られている」という感覚を生成し続ける。この問いに正面から向き合わない限り、どれほど丁寧にファシリテーションのスキルを磨いても、円形の廊下を走り続けることになる。笑
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








