META: 承認欲求を動力源にして走り続けた人間が最後に失うのは、他者の評価ではない。「評価される前の自分」という座標そのものだ。燃料が本体を侵食するプロセスを、哲学と神経科学の交差点から静かに解剖する。
ヘーゲルが「承認をめぐる闘争」を人間存在の根幹に置いたとき、彼はおそらく、その闘争に勝ち続けた人間の末路については深く考えていなかった。あるいは考えたかもしれないが、体系の美しさを優先して省略した。ドイツの哲学者はそういうことをよくやる(笑)。承認欲求の話をするとき、世間は概ね「承認欲求は毒だ」「承認欲求から自由になれ」という方向に議論を走らせる。しかし私が気になるのはそこではない。承認欲求を燃料として使い続けた人間の内部で、いったい何が起きているのか、という構造的な問いのほうだ。
燃料には、エンジンを動かすものと、エンジン自体を腐食させるものがある。ガソリンは適切なタンクに入れれば推進力になるが、間違った容器に入れ続ければ素材を溶かす。承認欲求はどちらの燃料か、という問いを立てたとき、私の答えは「状況による」ではなく、「長期的には後者になる」だ。そして腐食が最も深刻な箇所は、意外にも「自己同一性」という名の構造材だと思っている。
これは精神病理の話ではない。少なくとも、そこから入るつもりはない。むしろ情報理論と、ある種の熱力学的な比喩から入りたい。システムが外部からのフィードバックのみを参照して自己を更新し続けると、内部の基準点が消失する。これはサイバネティクスの文脈でノーバート・ウィーナーが扱った問題でもあるし、ある意味では制御理論における「ゲインが無限大になったとき系が発散する」という現象に似ている。承認欲求で走り続けた人間は、ゲインを上げ続けた制御系だ。外部信号への感度が極限まで高まった結果、自分自身の内部状態が「ノイズ」になる。
鏡の前で消えていく者──他者評価による自己の上書き
心理学者のマーク・レアリーは、自己評価を「社会的測定器(ソシオメーター)」として機能させるモデルを提唱した。自尊心は他者からの受容・拒絶を測定するセンサーであり、それ自体は適応的な機能だという主張だ。面白いモデルだと思う。しかし私がここで注目したいのは、センサーとしての自尊心が「測定器」から「存在証明」に転化する瞬間だ。気圧計で天気を確認するのと、気圧計の示す数値がなければ自分が存在しているかどうかわからなくなるのとでは、事態が根本的に違う。
承認を燃料にして走り続けた人間の内部では、後者への転化がゆっくりと、しかし確実に進行する。最初は「評価が高いと嬉しい」という単純な報酬回路の話だ。しかしドーパミン系の習慣化がそうであるように、同じ刺激では徐々に満足できなくなる。より多くの承認、より質の高い承認、より広い範囲からの承認を必要とするようになる。そしてあるとき気づく。いや、気づかないから問題なのだが、「承認されていない瞬間の自分」に実体がなくなっている。
これはラカンが「鏡像段階」で描いた倒錯の深化形に見える。乳児が鏡の中の自分を「自分」として認識するプロセスで、そもそも自己は他者の視線によって構築されるという議論だ。ラカンの文脈では、これは人間存在の構造的条件として語られる。しかし承認欲求に特化して走り続けた人間においては、鏡が自己の全てになる。鏡を取り除いたとき、映し返すものが何もない空間だけが残る。
遺伝的アルゴリズムが収束するとき──最適化の果ての空洞
遺伝的アルゴリズムというものがある。生物の進化を模倣した最適化手法で、環境からのフィードバックを元に個体を選択・淘汰・変異させながら解を探索する。うまく機能すれば驚くほど良い解を見つけ出す。しかし問題がある。環境の定義が間違っていた場合、あるいは環境が変化した場合、アルゴリズムは見事に「間違った最適解」へと収束する。これを「局所最適への罠」と呼ぶ。
承認欲求を燃料にして走る人間は、社会的評価という環境関数に対して遺伝的アルゴリズムを実行しているようなものだ。その環境関数が「いいね数」であれ「昇進速度」であれ「周囲からの尊敬」であれ、外部から定義された評価軸に対して自分を最適化し続ける。そしてある程度のところで収束する。しかし収束した先にあるのは、その評価軸における最適個体であって、「その人間自身が何を望むか」という問いとは無関係な存在だ。
ちなみに余談だが、私は診察室で時々、著名な実績を持つ経営者や専門家が「虚無感」を訴えるのを目にする。客観的に見れば彼らは成功している。外部評価という関数においては極めて高い値を出している。なのに空洞だという。これは遺伝的アルゴリズムが局所最適に収束した後の、探索の停止状態に似ている。走り続けることで生き延びてきたシステムが、最適解に到達して走る必要がなくなったとき、何を処理単位にすればいいかわからなくなる。目的関数を外部に委ねたシステムの末路だ。
アイデンティティの侵食──本体を燃やし始める燃料
エリック・エリクソンは自我同一性(アイデンティティ)を「連続性と一貫性の感覚」と定義した。時間を超えて「私は私だ」という感覚を保てることが、心理的健康の軸になるという考え方だ。この感覚は外部からの承認によって支えられる部分もあるが、本質的には内側の何かに根を持つ必要がある。根が外側にしかないものは、土が変わるたびに枯れる。
承認欲求で走り続けた人間において起きることを、私は「アイデンティティの外注化」と呼んでいる(造語だ。医学用語ではない)。自分が何者であるかという定義を、外部評価のアグリゲートに委ねることで、実行時には安定しているように見える。しかし基盤が外側にあるということは、評価環境が変化した瞬間に定義が崩壊するということだ。リストラ、老い、失敗、社会的影響力の消失──これらはアイデンティティを「傷つける」のではなく、外注先が突然倒産することで「自分が何者かわからなくなる」という事態を引き起こす。
1984年のウィンストン・スミスを思い出す。彼は真理省で歴史を書き換える仕事をしていた。過去の記録を現在の政治的要請に合わせて修正し続けた結果、最終的に「自分が何を信じていたか」すら曖昧になっていく。承認欲求による自己の上書きは、これに構造が似ている。外部の要請に合わせて自分の輪郭を修正し続けた結果、修正前の原稿が消える。オセロで言えば、黒石が白石に変わり続けた結果、最初に置いた自分の石の位置すら忘れる。
鉄は燃えない──消耗と変質の非対称性
これは完全に蛇足ですが、燃料の話を続けるなら、燃焼には「消耗」と「変質」の二種類がある。薪は燃えて灰になる。これは消耗だ。しかし鉄は燃えない。代わりに酸化して錆びる。外見上は似ているが、全く別のプロセスだ。承認欲求による摩耗は消耗ではなく変質に近い。使い切って終わるのではなく、使い続けることで素材の性質が変わる。
では何が変質するか。私が観察してきた限りでは、最初に変質するのは「動機の回路」だ。最初は承認が「手段」だった。何かをやり遂げたい、何かを伝えたいという衝動が先にあって、承認はその副産物として嬉しいという回路。これが徐々に逆転する。承認を得ることが「目的」になり、内容はその手段になる。この逆転は多くの場合、本人には見えない。というより、逆転が完了した後では、もともとの回路がどうだったかを思い出せない。
次に変質するのは「失敗の解釈回路」だ。承認を外から得ることを目的にしているシステムにとって、失敗は「学習データ」ではなく「存在の否定」になる。ここが決定的に違う。失敗から学ぶという行為は、内部に評価の基準点がなければ成立しない。外部評価が全ての基準になった状態では、失敗は情報ではなく、自己の崩壊信号として受信される。これが慢性化すると、失敗を回避するために新しい挑戦をしなくなる。あるいは失敗が見えなくなるように認知を歪める。どちらも、システムとしての劣化だ。
最終的に失うもの──評価の前に在ったもの
タイトルに戻る。承認欲求を燃料にして走り続けた人間が最終的に失うもの。私の答えは「評価される前に在った、何かに向かおうとする衝動の記憶」だ。評価結果ではない。評価される前の状態が失われる。
これはカミュ的な意味でのシーシュポスの問題でもある。カミュは転がし続けることに意味を見出せと言った。しかし私が問いたいのはそこではなく、最初になぜ岩を転がそうとしたのかという動機の問題だ。外部から「転がせ」と言われて転がし始めた人間にとって、承認が消えたとき、岩を転がす理由が文字通り存在しなくなる。シーシュポスの悲劇は岩が落ちることではなく、なぜ転がすのかを自分では決めていないことかもしれない。
Animatrixの「ワールドレコード」という短編がある。陸上選手が、肉体の限界を超えることで一瞬だけ機械の支配から意識が解放されるという話だ(興味がある人は見てほしい)。彼が走る理由は最初から承認ではなく、自分の身体と速度への純粋な関係性だった。その純粋性が、システムの外側に一瞬だけ出口を開いた。承認欲求で走り続けた人間が最終的に失うのは、ちょうどこの種の純粋性だと思う。走ること自体との、誰にも媒介されない関係性。
それを取り戻せるかという問いには、今日のところは答えない。答えられるかどうかも、正直なところ、私にはわからない。ただ一つ言えるのは、失ったことに気づくことと、失う前の感覚を記憶していることは、全く別の話だということだ。前者は可能だが、後者は記憶の上書きが完了していれば、もはや存在しない。存在しないものを取り戻すのか、新しく作り直すのかは、おそらく同じ問いではない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








