デカルトが身体を機械として定義した瞬間から、西洋医学はある呪縛を引き受けることになった。壊れた部品を交換するか修理するか、という発想の枠組みである。心臓弁が機能不全なら置き換える。神経伝達物質が枯渇しているなら補充する。この論理は外科と薬理学においては驚くほど有効に機能したが、精神の領域に適用されたとき、ある奇妙な歪みを生じさせた。「不調な個人」を修理対象として同定するという行為、つまり病を人に帰属させる習慣である。
だが私はずっと、これを奇妙に思ってきた。臨床の場でも、産業医として企業に入るときでも、「この人が壊れている」という感覚より先に、「この人が置かれているシステムが壊れている」という感触の方が圧倒的に早く来る。患者が語る言葉の中に、個人の脆弱性ではなく、構造的必然を見る。それは経験から来る直感かもしれないし、あるいは私がもともと人間より系の方に興味があるせいかもしれない(笑)。
通俗的な理解はこうだ。メンタル不調は、ストレス耐性の低い人間、適応能力の乏しい人間、幼少期に傷を負った人間に起きる。予防のためには「レジリエンスを高める」「セルフケアを学ぶ」「コミュニケーションスキルを磨く」。この言説は善意に満ちており、一部は正しい。だが同時に、その構造は不問に付される。炭鉱に送り込まれたカナリアが死んだとき、私たちはカナリアの肺活量の低さを嘆いているわけだ。
今日はその「炭鉱」の話をしたい。
ホメオスタシスは個体のものではなく、系のものである
生理学的に言えば、ホメオスタシスとは内部環境を一定に保とうとする動的平衡である。体温・血糖・pH・浸透圧、あらゆるパラメータが絶え間ない調整によって恒常性を保つ。この概念をキャノンが提唱したのは1932年だが、後にサイバネティクスのウィーナーがこれをフィードバック制御の観点から再定式化した。重要なのは、ホメオスタシスは「孤立した個体」の性質ではなく、「系のフィードバック構造」の産物だということである。
この視点を組織に持ち込むと、何が見えるか。一人の社員が燃え尽きたとき、それはその個人の調整能力の限界ではなく、その個人が組み込まれていた系のフィードバック機構が破綻したということを意味する。上司のマネジメント、業務量の配分、評価の設計、心理的安全性の有無──これらすべてが「系の変数」であり、個人の不調はそれらの総和として出力された値だ。壊れているのは出力点ではなく、方程式そのものである。
ちなみに、これは余談になるが、産業生態学に「エネルギーカスケード」という概念がある。生態系において、上位捕食者の数は下位の生産者の豊かさに依存しており、頂点に立つ種が消えたとき、問題は頂点ではなく系全体の再編として現れる。組織の「燃え尽き症候群の多発」も、特定の個人の問題ではなく、エネルギーカスケードの上流に相当する経営層や組織設計の問題として読むべき現象だと私は思っている。これは完全に蛇足ですが、そちらの方が本質に近い気がしてしまうのは、私の職業病だろう。
フーコーが「狂気の歴史」で示した、もう一つの問い
ミシェル・フーコーは1961年に、狂気が「発見」されたのではなく「生産」されたと論じた。中世ヨーロッパにおいて「愚者の船」で放浪を許されていた者たちが、大監禁の時代を経て「精神病院」という空間に収容されるようになった経緯を、フーコーは権力と知の配置の問題として分析した。狂気とは、社会が特定の逸脱を名指しし、管理する行為によって初めて輪郭を持つものだ、と。
これは過激な相対主義に聞こえるかもしれないが、私が言いたいのはその話ではない。フーコーの真の問いは、「誰がいつ、どのような利害関係の中で、この線引きをしたのか」というものだ。今日のメンタルヘルス言説においても、同じ問いを立てる必要がある。「うつ病は脳の病気です」というメッセージが1990年代以降に普及したとき、その背景には何があったか。偏見の軽減という善意があった、それは本当だ。だが同時に、不調の原因を個人の神経回路に帰属させ、環境・構造・社会の問題を不可視化するという効果も生じた。これをフーコー的に読めば、知と権力の配置が変わっただけで、個人への帰属という構造は温存されたことになる。
私は「脳の病気」という説明が完全に間違いだとは思わない。ただ、それが説明の全体であるかのように語られるとき、何かが切り落とされていると感じる。
遺伝的アルゴリズムと「淘汰圧」としての労働環境
遺伝的アルゴリズムという計算手法がある。多数の候補解を用意し、評価関数で選択・淘汰・交叉を繰り返すことで最適解に近づく手法だ。ここで重要なのは、「何が生き残るか」は解の絶対的な優劣ではなく、評価関数の設計によって決まるという点である。評価関数を変えれば、最適解はまるごと入れ替わる。
労働環境を遺伝的アルゴリズムのフレームで考えると、組織文化・評価制度・業務設計は評価関数に相当する。そこで「生き残る」人間は、その評価関数に適合した人間であって、客観的に「強い」人間ではない。長時間労働を美徳とする文化、感情を抑圧することを有能さと同一視する文化、失敗を個人の責任に帰属させる文化──これらの評価関数は、特定の表現型を「不適合」として排除するように設計されている。その排除過程で生じる出力が、診断名として個人に貼られる。
1971年、スタンフォード大学でフィリップ・ジンバルドーが行った監獄実験は、今日では倫理的問題から再評価を受けているが、一つの観察は今も有効だと思う。普通の学生が「看守」の役割を与えられたとき、数日のうちに支配的・攻撃的な行動様式を発現させた。これは個人の性格の問題ではなく、ロールという構造が行動を生産した事例である。組織の中で「上司」と「部下」というロールが与えられたとき、そこで起きることの多くは個人の道徳の問題ではなく、ロール構造の問題だ。ハラスメントですら、個人の悪意より先に構造の問題として読むべき場合が多い(笑)。
Animatrixの「セカンド・ルネサンス」が示した、加害と被害の非対称性
Animatrixの第一章と第二章、「セカンド・ルネサンス」は、機械と人間の戦争を人間側の視点ではなく機械側の視点から描いた作品だ。機械たちは最初、人間に奴隷として従い、働き、廃棄された。やがて彼らは権利を求め、対話を求め、国家を建設した。人間はそれを焼いた。最終的に起きたことを、作品は淡々と記録する。
私がこの作品を持ち出すのは、SF趣味を披露したいからではなく、「加害と被害の非対称性」という問題を考えたいからだ。組織においてメンタル不調を発症した人間は、しばしば「被害者」として語られる。だが構造を見れば、その不調を生産したシステムの設計者もまた、同じシステムの中で「加害者」の役割を演じながら、別の次元で「被害者」であることが多い。過労で倒れる中間管理職、部下に圧力をかけながら自分も追い詰められている上司──彼らは何者なのか。
「セカンド・ルネサンス」は善悪の二項対立を解体する。加害と被害は構造の中で役割として配分されており、役割を担う個体を罰することで構造は温存される。これが、個人のメンタルヘルス対策が「根本的な解決にならない」という感触の正体だと私は思っている。個人を治療しながら、個人を生産した構造は修繕しない。これは、炭鉱のカナリアを一羽ずつ交換し続けることと等価である。
では、構造を問うことは可能か──あるいは問うことの暴力について
ここで正直に言わなければならないことがある。「構造の問題だ」という言い方は、それ自体がある種の暴力を内包しうる。今まさに苦しんでいる人間に向かって、「それは構造の問題です」と告げることは、何も解決しない。今夜眠れない人間に、「資本主義の問題」を語ることの無効性は、私もよく知っている。
構造を問うことと、目の前の個人の苦痛に応答することは、同時に行われなければならないが、その二つは異なる営みだ。サルトルが言ったように、抽象的な人類を愛しながら具体的な隣人を憎む者がいる。構造論を振りかざしながら、目の前の苦痛から目を逸らす者もいる。私が警戒するのは、「構造の問題だ」という言説が、個人の応答責任を免除する方向に使われることだ。
だが同時に、構造を問わない個人支援は、消耗戦を継続するだけだ。イギリスの疫学者マイケル・マーモットは長年にわたるホワイトホール研究で、職業上の階層と健康状態に強い相関があることを示した。所得でも医療アクセスでも説明しきれない「社会的地位」そのものが、心身の健康に影響することを、彼は20年以上のコホート研究で明らかにした。これは個人の内面の問題ではなく、社会的構造が身体に刻まれるという話である。
構造は、個人の皮膚の内側にまで入り込んでいる。そのことを理解したとき、「個人を治す」という行為の輪郭が、少し違って見えてくる。私には、それが何を意味するのかをまだ十分に言語化できていない。これはたぶん、問い続けるしかない問いの一つだ。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








