META: 産業医面談を形式として消化し続ける企業は、いつしか「儀礼」と「機能」の区別を失う。人類学的に言えば、これは呪術の退行だ。ターナーの「閾(リミナリティ)」が永遠に続く組織に、変容は起きない。
ヴィクター・ターナーが「通過儀礼」の構造を解体したのは1969年のことだ。分離・閾・統合という三相モデル。人が社会的カテゴリーの狭間に宙吊りになる「リミナルな状態」こそが、変容を生む本質的な位相だとターナーは主張した。その後、この概念は人類学の枠を超えてあちこちに流用され、今やビジネス書のコンテキストでも意味を失いながら漂っている。笑
だが産業医面談という実践を眺めていると、私はターナーとは逆方向の現象を思い浮かべる。本来ならリミナルな変容の場であるはずのその時間が、あらゆる変容を迂回するために設計された「儀礼の残骸」として機能しているケースが、驚くほど多い。会社は面談の記録を保存し、フォーマットを整え、産業医のサインを集め、そうして「やった」という事実だけを積み上げていく。変容のためではなく、変容しないための儀式として。
ここに私は奇妙な逆説を見る。儀礼は本来、現実を変えるためにある。雨乞いも成人式も葬儀も、それが機能しているあいだは、社会的現実のレイヤーに何らかの変化をもたらす装置だった。しかし儀礼が「消化」されるとき──つまり参加者の誰もがその意味を信じなくなり、手続きとしてのみ遂行されるとき──それはレヴィ=ストロースが言うような象徴的効力を完全に失い、むしろ組織の思考を凍結させる機能を帯びる。形だけが残り、その形が「問題はない」という幻想の証拠として使われる。
私はこれを「儀礼の逆機能」と呼んでいる。そしてこの逆機能が最も静かに、最も深刻なダメージを与えているのが、人の心身を扱う産業保健の領域ではないかと思う。
「ホメオスタシス」という名の停滞──安定と凍結を混同する組織の生理学
生理学的な意味でのホメオスタシスは、美しい概念だ。体温・血糖・血圧・浸透圧──生体はあらゆる内部環境を一定範囲に保とうとする。この動的平衡こそが生命の定義に近いとすら言える。クロード・ベルナールが「内部環境」を発見したとき、彼は生命の本質に触れていた。
だが、ここに罠がある。組織というシステムも同様にホメオスタシスを持つが、組織のホメオスタシスは必ずしも「健全な状態の維持」ではなく、「現在の状態の維持」として機能することがある。機能不全が常態化した組織は、機能不全を平衡点として選択してしまう。産業医面談を通過儀礼として運用することが「標準」になった組織は、その形式的運用そのものを恒常性の一部として組み込んでいる。変えようとする力は、組織の免疫として排除される。
これは余談だが、ハーロウの「愛着剥奪実験」で育った仔ザルは、成長後も異常な姿勢でじっとしていることで「安定」を得ていた。あの映像は見るたびに胸が重くなる。動かないことが安全に見える、という状態は、外側からは「落ち着いている」と見えなくもない。組織の病理を観察するとき、私はしばしばあの仔ザルを連想する。
産業医面談を形式化している企業の多くは、自分たちが「きちんとやっている」と確信している。記録はある。面談時間は確保している。産業医も来ている。しかしその面談が、組織にとって不都合な情報を吸収して消化し、外部に出さないためのフィルターとして機能しているとしたら、それは健全なホメオスタシスではなく、病理的な凍結だ。
ポチョムキン村の問題──「見せるための構造物」が引き起こす認識論的崩壊
1787年、エカテリーナ2世がクリミア視察に向かう際、ポチョムキンは沿岸に作り物の村を並べた。女帝の目には繁栄した集落が映り、その虚構の統治業績が確認された。この話の真偽については歴史家の間で議論があるのだが(完全な創作だという説もある)、「ポチョムキン村」という概念はすでに独り歩きして、見せるためだけに存在する構造物を指す普遍的なメタファーになっている。
産業医面談のポチョムキン村化は、単に「不正」ではない点が厄介だ。不正ならば発覚すれば修正できる。問題はもっと深いところにある。見せるための構造物が長期間運用されると、運用している側の認知そのものが変容する。「やっている」という事実が「機能している」という確信を生み、「機能している」という確信が「問題はない」という知覚を作り出す。これは欺瞞ではなく、認識論的な崩壊だ。
1984年でウィンストン・スミスが直面したのも、この問題の極端な形だった。真実省が過去の記録を書き換え続けた結果、「現実」そのものが政治的に管理可能な素材になった。産業医面談の形骸化が起きている組織では、似たような構造が──もちろんはるかに小さなスケールで、はるかに善意の中で──進行している。面談記録が「問題のない証拠」として積み上がるにつれ、実際に何が起きているかを問う問いが、組織の中で立てにくくなる。
これは完全に蛇足ですが、私が精神科の臨床で繰り返し見てきたのも、この認識論的崩壊の個人版だ。「自分は大丈夫だ」という確信が深いほど、破綻が急激になる。個人においても組織においても、「大丈夫だという構造」の整備に多大なエネルギーが注がれているとき、それは往々にして、大丈夫ではないことの証左でもある。
「リスクのシグナル」を処理するシステムとして設計されているか──情報理論的な問いとして
産業医面談が機能しているかどうかは、シャノンの情報理論の枠組みで考えると整理しやすい。情報とは「予測を変える量」だ。面談が終わった後、組織の認識・意思決定・行動が変わっているか。変わっていないとすれば、面談はノイズの消去には成功しているかもしれないが、シグナルの伝達には失敗している。
機能する産業医面談は、組織にとって「不快な情報」を届けるパイプラインとして設計されなければならない。これは当然、組織にとって快適ではない。不快な情報を受け取れるシステムを作るには、その情報を受け取ったとき組織が崩壊しない構造的な成熟が必要だ。逆に言えば、産業医面談を通過儀礼として運用している組織は、多くの場合、不快な情報を受け取れる成熟を持っていない。
ここで興味深いのは、これが鶏と卵の関係になっている点だ。不快な情報を受け取れない組織は面談を形式化する。面談が形式化されると不快な情報が届かない。不快な情報が届かないと組織の成熟機会が失われる。成熟機会が失われると、さらに不快な情報を受け取れなくなる。遺伝的アルゴリズムで言えば、「現在の解」に収束してしまい、大域的最適を探索する変異が起きない状態だ。局所最適に閉じ込められた組織が「うちは安定している」と言うとき、その安定の意味を問うことは、組織内部からは極めて難しい。
Animatrix が描いた問いに戻る──快適な虚構の中で滅びる知性について
Animatrixの「The Second Renaissance」で描かれた人類の末路は、単純な暴力による滅亡ではなかった。人類は段階的に、自分たちが作り出したシステムに最適化された環境に移行していき、その過程で自らが何かを失っていることに気づかなくなった。これはマトリックスというフィクションの話だが、「快適に機能している虚構の中で、現実認識能力を喪失する」という構造は、実に普遍的なパターンを示している。
産業医面談を通過儀礼として洗練させた企業は、その洗練の過程で何かを失う。それは「組織の内側に在る人間の苦しみを、情報として受け取る能力」だ。人事は記録をファイリングし、経営は「ちゃんとやっている」と確信し、産業医は月に一度来訪してサインをして帰る。その精巧なシステムの中で、実際に苦しんでいる誰かの信号は、様々なフィルターを経て、届くべき場所に届かないまま減衰する。
末路という言葉を使うなら、それは劇的なものではない。突然の崩壊ではなく、緩やかな鈍化だ。人材が静かに去る。採用が難しくなる。優秀な層が早期に離脱する。残った人間の認知負荷が上がる。生産性の低下が「業界全体の傾向」として解釈される。経営者は正直、何が問題かを把握できないまま、「まあ仕方ない」という諦念の中に沈んでいく。これは劇的な破綻ではないから、診断も難しい。
儀礼を儀礼のまま葬るということ
私がここで何かを「すべき」と言う気はない。そういう文章を書く気になれない、というのが正直なところだ。ただ、一つの問いを残しておきたい。
あなたの組織の産業医面談が終わった後、何が変わるか。具体的に、誰かの働き方が変わるか。誰かの業務量が見直されるか。誰かの上司が、自分の関わり方を問い直すか。それとも、面談があったという記録だけが残り、また同じ波が来るまでシステムは静かに稼働し続けるか。
ターナーのリミナリティに戻るなら、閾を通過した後に変容が起きなければ、その儀礼は人を変えるためではなく、人を「変わらないもの」として確認するために存在していることになる。組織が閾を通過しないまま、面談という名の儀礼を無限に繰り返しているとき、それは統合のない分離であり、変容のない通過だ。
儀礼の死骸は腐らない。ただ、そこに座り続けているうちに、組織の方が少しずつ冷えていく。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院







