ガレノスは、発熱を「病気そのもの」だと考えていた。だから熱を下げることが治療だった。その誤解は千年以上にわたって医学を支配し、無数の人間が「治療」によって死んだ。発熱が実は免疫応答の一部であり、宿主が病原体を殲滅しようとする能動的なプロセスであると理解されるまで、善意の医師たちは体温を下げ続けた。彼らは患者を殺したかったわけではない。むしろ逆だ。彼らは親切だった。その親切さが、問題の解決を妨げていた。
これは医学史の話だが、同時に人間関係の話でもあり、組織論の話でもあり、もっと根の深い何かについての話でもある。私がここで考えたいのは、優しさという行為の「機能的な側面」だ。優しさが何を保護し、何を延命させ、何を不可視にするか。そういう冷たい問いを立てたい。
通俗的な理解では、優しさは善であり、欠如は悪だ。職場のハラスメント研修でも、育児書でも、精神保健の啓発資料でも、「もっと優しく」「もっと寄り添って」という方向へ向かう。それ自体を全否定するつもりはない。しかし、その方向性が持つ盲点について、私たちはあまりにも無警戒だと思う。優しさが系の機能不全を温存し、腐敗した構造を延命させるメカニズムが確かに存在する。そしてそのメカニズムは、善意という外皮をまとっているがゆえに、批判するのが非常に難しい。
これは「厳しさの方が正しい」という話ではない。そういう単純な反転をしたいわけではまったくない。むしろ、優しさと厳しさの二項対立そのものが問題の核心を隠蔽していると思っている。私が興味を持つのは、善意が持つ「構造的な機能」の話だ。
ホメオスタシスとしての優しさ――系は壊れないために優しさを使う
生物学的なホメオスタシスとは、系が外乱に対して現状を維持しようとするフィードバック機構のことだ。体温、血糖値、pH。これらはある範囲内に保たれるように精巧に設計されている。この機構は個体の生存に不可欠だが、同時に、変化を嫌う。系は常に「現状」を最適解として扱い、逸脱を修正しようとする。
人間の集団、特に家族や組織も、同様のホメオスタシス的な機制を持つ。誰かが機能不全に陥っているとき、系はそれを「修正」するよりも「吸収」しようとすることが多い。周囲が穴を埋め、過負荷を分散し、機能不全を見えにくくする。そしてこの「吸収」のプロセスに、優しさが構造的に利用される。
アルコール依存症の家族力動を研究した一連の文献の中で「イネイブリング(enabling)」という概念が登場する。依存症者の飲酒を直接的には反対しないが、その結果を引き受け続けることで、依存行動を持続可能にしてしまう行為のことだ。遅刻した本人の代わりに謝罪し、散乱した部屋を片付け、失った仕事を補填する。これらの行為は一つひとつを見れば親切であり、愛情の表現だ。しかし系全体を見れば、それは依存という機能不全を存続させる精巧な装置として働いている。
これは依存症の家族に限らない。職場の無能な上司を庇い続ける部下の集団、問題のある経営判断を指摘せずに実行し続ける役員会、感情的に不安定なパートナーを傷つけないように自分の欲求を常に後退させ続ける関係。これらはすべて、優しさという燃料で動くホメオスタシス機構だ。系は壊れないために、やさしさを使う。
ニーチェの蛇と、加害者になる被害者の論理
ニーチェが「道徳の系譜学」で解剖した「奴隷道徳」の核心は、弱さを美徳に変換する認知的な錬金術だ。強者が「私は善い」と肯定の論理から出発するのに対し、弱者は「彼らは悪い、ゆえに私は善い」という否定の論理から自己規定する。そして興味深いのは、この構造の中で「優しさ」「忍耐」「自己犠牲」が最高の美徳として機能するという点だ。なぜなら、それは反撃する力を持たない者が、反撃しないことを正当化する物語だからだ。
私はニーチェを全面的に肯定したいわけではない(彼の思想を都合よく使う人間の系譜は長く、ろくなことにならない笑)。しかし彼が暴いた「美徳の機能的な役割」については、まだ十分に考察されていないと思う。優しさが「力の欠如を合理化する物語」として機能しているとき、その優しさは誰を守り、何を存続させているのか。
もう少し具体的に言う。機能不全な状態を指摘しない優しさは、指摘する力を持たないか、指摘した後のコンフリクトに耐える意志がないか、あるいは機能不全が解消されることで自分の役割が消えることを無意識に恐れているか、そのどれかであることが多い。これは残酷な観察だが、臨床的にはそれほど珍しくない。
これは余談になるが、攻殻機動隊のタチコマが自律性を獲得していく過程で示す「親切さ」の問題は、この文脈で面白い。タチコマたちは仲間を守るために自らを犠牲にするが、その行為が「本当に自律的な選択か」あるいは「プログラムされた奉仕行動か」という問いに、作品は明確な答えを出さない。優しさが自律的な選択なのか、それとも構造的に要請された役割遂行なのか、という問いはフィクションの世界だけの問いではない。
外科的切断とシステム崩壊の恐怖――なぜ私たちは腐敗した系に優しいのか
機能不全を指摘し、変化を要求し、場合によっては関係性を断ち切る行為には、それ相応のコストと不確実性が伴う。これは純粋にリスク計算の問題でもある。現状がたとえ機能不全であっても、それは「既知の苦痛」だ。変化を選択することは「未知の不確実性」への跳躍を意味する。人間の認知は一般的に、損失を利得より大きく評価する(カーネマンとトベルスキーが1979年に記述したプロスペクト理論の損失回避バイアス)。だとすれば、現状の機能不全を優しさで包んで温存することは、認知的には「合理的な選択」ですらある。
組織崩壊への恐怖は特に顕著だ。機能不全な人物を排除すれば、チームが壊れるかもしれない。機能不全な関係を終わらせれば、孤独になるかもしれない。機能不全な習慣を断ち切れば、アイデンティティが崩れるかもしれない。この恐怖は合理的な根拠を持っており、馬鹿にすることはできない。実際、系は崩壊するかもしれない。そして崩壊した系からの再建は、常に成功するとは限らない。
しかしここで問わなければならないことがある。崩壊しない系は、本当に健全な系なのか、それとも崩壊しないように機能不全が精巧に管理された系なのか。1984年のオセアニアは崩壊しなかった。それは安定と呼べるのか。
ちなみに、遺伝的アルゴリズムの文脈で言えば、系が変化に対して過度に安定している状態は「局所最適解への収束」として理解できる。環境が変化しても局所最適解にとどまり続けることは、探索空間全体から見れば重大な機会損失だ。優しさが局所最適解への収束を強化するメカニズムとして機能しているなら、それはある種の進化的な毒だと言える。
善意の構造的暴力――傷つけないことが傷つけることになる逆説
ガルトゥングが「構造的暴力」という概念を提唱したのは1969年のことだ。直接的な物理的暴力ではなく、社会構造そのものが人間の潜在能力の実現を妨げるとき、そこには暴力が存在するという考え方だ。私はこの概念を、善意の文脈に適用することができると思っている。
機能不全を指摘せず、現状を優しさで包んで温存することは、表面的には「傷つけない」行為だ。しかし系全体を、より長い時間軸で見たとき、それは当事者が本来持っていた変化の機会を奪い、問題が深刻化するための時間を提供し、機能不全が構造化されることを許す行為でもある。傷つけないことが、より深く傷つけることになるという逆説は、単なるレトリックではなく、観察可能な現象だ。
これは医療の場でも起きる。診断を告げないことが患者を守るという発想は、長らく日本の医療文化の中に根強くあった。しかしその「優しさ」は、患者が自分の残り時間を知った上で選択する機会を奪い、準備する時間を奪い、別れを言う機会を奪った。善意は確かにあった。しかしその善意は、患者の自律性を系統的に毀損していた。
私が思うに、問題の核心は優しさを持つか持たないかではなく、優しさが誰のため何のために機能しているかを問う習慣があるかどうかだ。優しさが当事者の成長と自律性を守るために機能しているのか、それとも自分の不快感の回避と系の現状維持のために機能しているのか。この問いに正直に答えることは、思いのほか難しい。
腐敗の美学と、それでも問いを立てることの意味
私はここで「だから優しくするな」と言いたいわけではない。そういう結論が導けると思っているわけでもない。人間が優しさを持つことは、ある意味で不可避だ。私たちは他者の苦痛に感応する神経系を持ち、鏡のように相手の状態を内部でシミュレートする。共感は設計上の特性であって、欠陥ではない。
ただ、優しさが構造的にどう機能しているかを観察する視点は、優しさそのものとは別次元に置くことができると思っている。愛情を持ちながら、その愛情が何を延命させているかを同時に問う。これは矛盾ではなく、精度の高い思考の形だと私は思う。
Animatrixの「マトリックスの歴史」の中で、機械たちは最初、人間から拒絶された。そして最終的に人間を眠らせることで共生を選んだ。あれを「優しさ」と呼ぶのは奇妙だが、系を維持するための最も穏やかな解決策という意味では、ある種の合理的な優しさだった(笑)。もちろんそれは人間の自律性を完全に解体した上での話だが。
系の腐敗を見ながら、それを優しさで包んで延命させることと、腐敗を直視して変化の痛みを引き受けることの間に、どちらが「正しい」かという普遍的な答えはないかもしれない。そもそも系の「健全な状態」が何かを定義すること自体が、観察者の立場に依存している。
しかし少なくとも、自分がどちらを選んでいるかを自覚することと、その選択が誰の何を守り、誰の何を犠牲にしているかを問い続けることは、できると思う。それが快適な問いでないことは確かだが、不快な問いを回避するための優しさが、何を延命させるかについては、もう十分に書いた。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








