ヘーゲルは「主と奴の弁証法」の中で、人間の自己意識は他者の眼差しによってのみ成立すると書いた。奴隷が主人に承認されることで初めて自分を「ある」と感じる、あの構造だ。これを読んだ学生の多くは「封建制の話でしょ」と片付けるが、私はどうしても現代のSNSタイムラインが脳裏に浮かんでしまう。構造が同型なのだから、これは比喩ではなく字義通りの相似である。
承認欲求を「悪いもの」として処理するのは、おそらく間違っている。そもそもそれは生存戦略だった。ホモ・サピエンスが集団から排除されることは即ち死を意味した時代が、ほんの一万年前まで続いていた。他者に認められたいという衝動は、自然選択が何十万年もかけて彫刻した生理的反応であり、それを「浅い」と切り捨てるのは、インスリン分泌を「意志が弱い」と責めるようなものだ。問題はその欲求が「あること」ではなく、それを唯一の燃料にして走り続けた場合に何が起きるか、という一点に絞られる。
私が観察してきた人間のパターンを整理すると、承認欲求を主燃料にしているシステムには、ある共通の熱力学的問題がある。燃焼効率が逓減するのだ。最初は一つの「いいね」で充足していたのが、やがて百では足りなくなり、千でも足りなくなる。これは快楽系の脱感作として神経科学的に説明できるが、それよりも構造的に面白い問題がある。燃料を外部に依存するシステムは、燃料の供給が止まった瞬間に停止するだけでなく、供給が継続している間も徐々に「炉の壁」を燃やし続けているという事実だ。
炉の壁とは何か。それが今日の主題である。
鏡の中の自己、あるいは「私」はどこで製造されているか
クーリー(Charles Cooley)という社会学者が「鏡の自己」という概念を提唱した。人間の自己像は他者の反応という鏡に映った像によって形成される、という議論だ。これ自体はそれほど驚くべき話ではない。問題はその「鏡」の性質にある。
通常の光学的な鏡は対象を忠実に反射する。しかしSNSという鏡は増幅と歪曲を同時に行う。ある投稿が「バズる」とき、それは自己の真正な側面が認められたのではなく、アルゴリズムの好む表現形式にたまたまフィットした側面が増幅されたにすぎない。遺伝的アルゴリズムで言えば、適応度関数が「エンゲージメント率」に設定された環境で選択圧がかかっている状態だ。そこで「生き延びた」表現は、真実である必要も、深みがある必要もない。刺激的であればいい。
ここから逆算すると、承認欲求を主燃料にして走り続けた人間は、徐々に「アルゴリズムに最適化された自己像」を内面化していく。これは意識的な選択ではない。報酬系がフィードバックループを形成し、承認を得た行動が強化されるという、単純な条件づけの問題だ。パブロフの犬に倫理的な批判をしても意味がないように、このプロセス自体を責める気にはなれない。ただ、その帰結として何が起きるかについては、冷静に記述しておく必要がある。
帰結はこうだ。ある時点から、本人は「自分が何を好きなのか」「何に本当に価値を感じているのか」を、内側から参照できなくなる。外部の反応なしには、自分の感情の意味さえ確定できない状態になる。これを私は「自己の外部委託」と呼んでいる。
サルトルが予言した地獄と、その現代的実装
「地獄とは他者である」というサルトルの台詞は、『出口なし』の中の最も有名な一節だが、よく誤解されている。これは「他者は煩わしい」という社交不安の話ではない。他者の眼差しによって自分が「対象化」される恐怖、すなわち自由な主体であることを奪われる経験の話だ。
ところが承認欲求を主燃料にした人間は、この「地獄」を自ら進んでインストールする。他者に見られることを渇望し、対象化を求め、その眼差しに自己の根拠を置く。サルトルの枠組みで言えば、これは自由からの逃走であり、ボーヴォワールが「内在性」と呼んだ状態への自発的な降伏だ。
これは完全に蛇足ですが、私が好きなAnimatrixのエピソード「マトリックスの世界」(The Second Renaissance)の中で、機械が人間を「電池」として使い始める場面がある。人間のエネルギーを外部から採取する構造。承認欲求を社会システムに最適化させ続けた人間というのは、ある意味でその逆パターンだと思う。自分のエネルギー(注意・時間・感情・真正性)を外部のシステムに供給し続けながら、「承認」という電気信号を受け取って動いている。供給するのが人間で、受け取るのもシステムではなく人間自身なのだが、構造としてはそう遠くない。
話を戻す。サルトルの地獄を自らインストールした場合、最終的に起きることは「恥」の増殖だ。他者の眼差しが内面化され、自分の内側に監視者が住み着く。ベンサムの一望監視塔(パノプティコン)をフーコーが分析したあの構造が、個人の心理内部で完成する。その段階では、もはや実際の承認は関係ない。内側の監視者が常に「お前は十分か」と問い続ける。
ホメオスタシスの破綻、あるいは「基準点」が移動し続ける問題
生理学的に考えると、ホメオスタシスは内部基準点(セットポイント)を維持しようとする機能だ。体温、血糖値、pH。これらはすべて、変動に対して元の状態へ引き戻す調節機構を持っている。
ところが承認欲求の充足というのは、セットポイントが固定されていない。むしろ充足するたびにセットポイント自体が上昇する。これは快楽系の耐性形成(sensitization / desensitization)として知られる現象だが、ホメオスタシスの観点から見ると悪夢的な構造だ。目標が逃げ続ける。走っても走っても地平線は遠ざかる。
ヴォルフガング・ルッツ(Wolfgang Lutz)が人口統計の文脈で使った「適応的期待」という概念に近い。現状が更新されると、それが新しい「普通」になる。インフレと同じ構造で、承認の購買力が常に下落し続ける。
ちなみに高山病の話をしてもいいですか(笑)。高所に行くと、体は高分圧酸素環境への適応を解除し、低酸素に対するhoméostasisを新たに構築する。平地に戻ったとき、逆に酸素過剰に感じる時期がある。長期間「承認過剰」環境にいた人間が日常に戻ったとき、普通の日常が「酸欠」のように感じられる構造とよく似ている。これが「承認欲求を主燃料にした人間が最終的に失うもの」の一つ、日常の充足感だ。
失われるのは「退屈」という贅沢品である
パスカルは「人間の不幸はすべて、部屋の中でじっとしていられないことから生じる」と書いた(『パンセ』)。この命題を私はずっと過大評価しすぎていると思っていたが、最近考えが変わりつつある。
承認欲求を主燃料にして走り続けた人間が最終的に失うもの。それは大げさに言えば「自己」だが、もう少し具体的に言うと、何も見られていない時間の中で存在できる能力だ。誰にも観測されていないとき、評価されていないとき、その時間に何らかの内的充足を感じる回路が、長期間の外部依存によって廃用萎縮を起こす。
これは神経科学的に言えば、デフォルトモードネットワーク(DMN)の機能問題と関係しているかもしれない。DMNは「何もしていない」ときに活性化し、自己参照的思考や内省を担う。外部刺激への反応に最適化されたシステムでは、このネットワークが慢性的に抑制される可能性がある。もっとも、これは私の臨床的直感に過ぎず、きちんとしたエビデンスが揃っているわけではない(笑)。
ただ、現象としては確認できる。承認を主燃料にして走ってきた人間が立ち止まったとき、彼らはしばしば「自分が何をしたいのかわからない」と言う。欲望の空白ではなく、欲望の起点が外部化されてしまったことによる、内部参照システムの機能不全だ。カフカが日記に書いたような、自己への疎外感。自分の欲望が自分のものに思えない、という奇妙な経験。
根拠のない希望を語る気はないが
ここまで書いてきた構造が正しいとすれば、「承認欲求をなくせ」という処方は完全に的外れだということになる。欲求を消去する方法はないし、消去すべきでもない。問いは常に「何を燃料にするか」の構成比の問題だ。
順列都市(グレッグ・イーガン)の中で、デジタル人格として複製された意識が「本物の自分」とは何かを巡って揺らぎ続ける。外部から観測可能な行動パターンが同一であっても、内部の経験の起源が問われる。承認に最適化された自己も、表面上は機能し続ける。問題は経験の質と起源だ。
私が興味を持つのは、炉の壁が燃え尽きる「前」のどこかで、人間が自分の内側に別の燃焼源を見出せるかどうかという問いだ。それが可能かどうかについて、楽観的な証拠も悲観的な証拠も、私の手元には不十分にしかない。
ただ、これだけは言える。承認という燃料の問題は、エネルギー源の問題というよりも、自己の所在地の問題だということだ。自分が自分の内側に「いる」か、他者の視線の中に「いる」か。後者に住み着いた人間は、観測者がいなくなった宇宙で粒子が存在できるかという問いと同型の、非常に奇妙な存在論的問題に直面することになる。
その問いに答える義務は、誰にもない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








