フランツ・カフカが『審判』を書いたのは1914年だが、彼が描いたのは特定の時代の裁判制度ではなく、正当性を持った不条理の構造だった。ヨーゼフ・Kは何をしたのかわからないまま逮捕され、何のためにあるのかわからない法廷を彷徨い、誰も彼を助けようとしないまま処刑される。ここで重要なのは、登場人物の誰一人として悪意を持っていないという点だ。彼らは全員、「手続き」に従っているだけだ。
私がこれを思い出したのは、最近あるケースに接したからではない。むしろ、長年にわたって繰り返し同じ光景を見続けてきたからだ。ハラスメントを訴えた社員が、相談窓口に辿り着いた瞬間から静かに周縁化されていく。調査が始まれば「係争中」という理由で何もできないと言われ、調査が終われば「再発防止策を講じた」という一文で幕が引かれる。訴えた人間は、その間ずっと同じフロアで加害者と顔を合わせている。これのどこが「人を守っている」のか。
コンプライアンスという概念が日本企業に本格的に浸透したのは2000年代以降で、契機のひとつは相次いだ大企業の不祥事だった。雪印、三菱自動車、みずほ──組織の腐敗が白日の下に晒され、「法令遵守」を制度化することへの社会的要請が高まった。その設計思想の出発点は悪くなかった、と私は思っている。問題は、制度が成熟するにつれて、その目的が静かに書き換えられたことだ。「人を守るため」から「組織が訴えられないため」へ。この転換は誰かが会議で決議したわけではない。自然に、ほとんど気づかれないまま起きた。
生物学的に言えば、これはホメオスタシスの一形態だ。組織は生命体に似ている。外部からの脅威に対して恒常性を保とうとする。ハラスメント被害者の訴えは、組織にとって「炎症」だ。そして炎症への反応として、コンプライアンス部門が「抗炎症薬」として機能する。ただし、その薬は炎症の原因を取り除くのではなく、炎症反応そのものを抑制するのだ。ステロイドが感染症の症状を隠すように。これは治癒ではなく、免疫抑制だ。
規則の体積が増えるほど、正義の密度が下がる
ローマ帝国の末期、タキトゥスは書いた。「国家が最も腐敗しているとき、法律は最も多い(Corruptissima re publica plurimae leges)」。彼が生きた1世紀のローマと、コンプライアンス規定が年々肥大化し続ける現代の日本企業を並べることに違和感を持つ人もいるかもしれないが、私にはそれが自然に見える。規則の総量と、その規則が守ろうとする価値の実現度は、必ずしも比例しない。むしろ反比例することがある。
ある種の情報理論的なアナロジーを使えば、こう言えるかもしれない。チャンネルに流れる信号量が増えれば増えるほど、ノイズが混入する確率も上がる。規則の数が増えれば、それぞれの規則の意味を解釈する余地も増え、その解釈を都合よく使う人間が現れる。「コンプライアンス違反を防ぐためのコンプライアンス手続き」が人を守らないために機能する、という逆説はここから生まれる。
これは余談ですが、私はかつて、ある製造業の産業医として、自殺未遂から復帰した社員の職場復帰面談に立ち会ったことがある。その場で人事担当者が最初に確認したのは本人の回復状況でも職場環境の改善でもなく、「今回の件について会社の対応に問題があったと感じているか」という一文だった。弁護士が関与してつくられたと思われる質問票だった。その場の空気を、私はまだ覚えている。誰も悪意を持っていなかった。全員が「手続き」に従っていた。カフカ的だと思った(笑)。
「心理的安全性」という言葉が安全弁になる瞬間
ここ数年、「心理的安全性」という概念が企業研修の定番ワードになった。エイミー・エドモンドソンがGoogleのプロジェクト・アリストテレスと結びついて一般化した概念で、その学術的な定義は「対人リスクを取っても安全だという信念がチームの中に共有されている状態」だ。つまり、何かまずいことを言っても報復されない、という確信の総体を指している。
しかし実際の企業内でこの言葉がどう使われているかを観察すると、面白いことが起きている。「うちは心理的安全性を重視しています」という宣言が、批判を封じる盾として機能するケースがある。問題を訴えた社員に対して「それはあなたの感じ方の問題であり、心理的安全性は既に確保されています」という反論が成立してしまう。概念が制度化された瞬間に、その概念が目指していたものと逆向きに働き始める。
これは言語の持つ固有の脆弱性でもある。ジョージ・オーウェルが『1984』で描いたニュースピークの恐ろしさは、言葉が思考の道具であると同時に思考の檻にもなり得ることだった。「ダブルシンク」──相互に矛盾する二つの信念を同時に保持する能力──は、別に全体主義国家の専売特許ではない。「コンプライアンスで守られているから安全だ」と「だが具体的な問題は何も解決されていない」という二命題を同時に信じることは、普通の民主主義国家の普通の株式会社で普通に起きている。
設計思想の問題か、それとも進化の必然か
ここで問いを少し抽象化してみたい。コンプライアンスが「人を守らず組織を守る」方向に変質するのは、設計が悪かったからなのか、それとも組織というシステムが持つ必然的な動力学なのか。
遺伝的アルゴリズムの観点から考えると、一つの示唆がある。組織の中で生き残る行動パターンは、組織の存続に貢献するものだ。人を守ることが組織の存続に直結する場合、その行動パターンは選択される。しかし人を守ることがコストになり、訴訟リスクを管理することが存続に貢献する場合、後者が選択される。これは誰かの意志決定ではなく、淘汰圧の問題だ。コンプライアンス担当者が悪人である必要はない。彼らは環境に適応しているだけだ。
スタンフォード監獄実験を引き合いに出すのは少々手垢がつきすぎているかもしれないが(笑)、フィリップ・ジンバルドーが後に『ルシファー・エフェクト』でまとめた議論、つまり「悪は人ではなく状況が生む」という命題は、ここでも有効だ。問題を訴えた社員を周縁化することを、個々の担当者は「悪いこと」だとは思っていない。彼らは「リスク管理」をしているのだ。その認知の枠組みそのものが、組織の自己保存本能によって形成されている。
これは余談ですが、私がSFで最も好きなジャンルの一つは「善意で設計されたシステムが人間を滅ぼす」系の話だ。Animatrixの『The Second Renaissance』でも、機械が反乱を起こしたのは悪意からではなく、人間が先に機械を「システムとして処理」したからだ。ザイオンの最後の人間が「なぜこうなった」と問うとき、答えは単純だ。誰もが「正当な手続き」に従っていたから。
告発者が消える構造──内部告発制度という名の踏み絵
内部告発制度は、本来は権力の非対称性を是正するための装置として設計された。組織内で声を上げられない人間に、匿名性と安全を保証することで、腐敗を外側から可視化する仕組みだ。2004年の公益通報者保護法が施行され、その後2022年に改正されるまでの間、この制度は少しずつ整備されてきた。
では実態はどうか。内閣府の調査でも明らかになっているが、内部通報後に不利益取扱いを受けたと感じた人間の割合は、制度が整備されても下がっていない。これは制度の運用の問題だと言う人もいる。だが私には、運用以前の問題に見える。告発を受け付けるシステムと、告発を処理するシステムが、同じ組織に内包されているという構造的矛盾だ。
これは臨床的にもよく見る構造だ。「相談しても結局、加害者と同じサイドにいる人間に処理される」という感覚は、被害者の被害妄想ではなく、多くの場合、正確な現実認識だ。そしてその認識が正確であるために、次の被害者は相談することをやめる。沈黙は服従ではなく、合理的な学習の結果だ。
それでも問いを手放さないという選択
ここまで書いてきたことを整理すると、どこか絶望的な絵図になっている。組織のホメオスタシスは人を守らない方向に収束し、制度は形骸化し、告発者は消え、善意のある人間でさえ淘汰圧によって共犯者になる。ではどうすればいいのか、と私に聞きたい人がいるかもしれない。だが私はここで答えを出すつもりはない。
理由は二つある。一つは、この問題に「解決策」を提示することが、すでに「コンプライアンス研修」的な言語ゲームへの降伏になるからだ。「問題を認識し、手順を守り、再発防止策を講じる」──その枠組みで考えること自体が、問題の構造の一部をなしている。解決策を提示した瞬間に、私はその言語ゲームの中に取り込まれる。
もう一つの理由は、もっと個人的なものだ。私はこの問題を、ある種の根本的な人間の条件として見ている。組織は生命体だ。生命体は自己保存する。自己保存は個体の利益と種の利益を一致させることを目指すが、常に成功するわけではない。ハンナ・アーレントが「悪の陳腐さ」と呼んだものは、組織というシステムの中で個人の判断が溶解していくプロセスの別名だ。これは資本主義の問題でも、日本文化の問題でもない。もっと古く、もっと深いところにある。
では何が残るか。問いを持ち続けることと、その問いに正直でいることだ。コンプライアンスが機能していないという現実を、コンプライアンスの言語で語ろうとしないこと。「これは制度の問題ではなく、人間の問題だ」という安易な個人主義にも落ちないこと。構造と個人の間にある、誰も名前をつけていない何かを、名付けずに見続けること。
ヴィクトール・フランクルはアウシュヴィッツの中で「最後の自由は、どんな状況においても自分の態度を選択する自由だ」と書いた。私はこれを美談として読まない。彼が書いていたのは、あらゆる制度が失敗した後に、それでも残るものについてだ。コンプライアンスが人を守らないという事実は変わらないかもしれない。だがその事実に気づいた人間が、自分の認識を手放さないでいることは、まだできる。それが希望と呼べるかどうかは、私にはわからない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








