META: 「メンタルが強い」は称賛語として流通しているが、その実態を解剖すると、感情の抑圧・共感回路の閉塞・組織への毒性という三重構造が見えてくる。神話は個人を守るどころか、集団を静かに壊す。
スパルタの教育システムには「クリュプテイア」と呼ばれる制度があった。エリートとして選抜された若者たちが、農奴であるヘイロータイを夜間に密かに殺すことで「強さ」を証明する、というものだ。感情を出さない。痛みを見せない。恐怖を内面化したまま機能する。これがスパルタにおける理想の人間像だった。スパルタは確かに強かった。が、文化を生まなかった。哲学も、文学も、数学も、ほとんど何も残さなかった。彼らが後世に残したのは主に「強さの神話」だけだ。
現代の経営者論を眺めていると、私はどうしてもこのスパルタのことを思い出す。「メンタルが強い経営者」という概念が、ある種の理想形として流通している。不況でも動じない。失敗しても立ち直りが早い。感情に流されず判断できる。これらはすべて、額面通りに受け取れば美徳に見える。問題は、その「強さ」がどういう機序で成立しているのか、という部分を誰も問わないことだ。
強さには二種類ある。処理能力が高いゆえの強さと、感受性を遮断したゆえの強さだ。前者は可逆的で、後者はほぼ不可逆的だ。そして厄介なことに、外から見ると両者はほとんど区別がつかない。どちらも「泰然としている」ように見える。診察室という文脈であれば、この二つを識別するためのプロセスにかなりの時間をかけるのだが、経営の文脈ではそんな繊細な仕分けは基本的に行われない。「結果を出している」「崩れない」、それだけで強さの証明とされる。
私が問いたいのは、その「強さ」が組織全体に対して何をしているか、という点だ。個人の防衛機制が、集団の生態系にどう作用するか。これは精神医学というより、むしろシステム生物学の問いに近い。
感情を「持たない」のではなく「処理しない」という区別
まず前提として、ヒトは感情を消せない。これは設計上の制約だ。扁桃体は皮質からの制御を受けるが、その逆方向の投射の方がはるかに太い。つまり感情系は認知系を上回る帯域幅で脳に信号を送り続けている。「感情を持たない人間」は神経学的にほぼ存在しない。いるのは、感情を「なかったことにする処理」が習慣化した人間だ。
これを解離性抑圧と呼んでもいいし、もう少し臨床的に言えば感情失認(アレキシサイミア)と呼んでもいい。感情は発生しているが、それをラベリングして言語化する回路が機能していない状態だ。当人は「冷静」と感じているが、実際には感情が内側で蓄積されたまま処理待ちになっている。これは強さではなく、バッファのオーバーフローをなんとか先送りしている状態に過ぎない。
ソマティックな症状──説明のつかない身体症状、慢性的な睡眠障害、免疫機能の低下──が「メンタルが強い」とされる経営者に多いのは偶然ではない。感情は処理されないまま、身体という別チャンネルに出口を求める。これはキャノン=バードの情動理論が示唆していた方向性の一つであり、現代の精神神経免疫学がより精密に記述しつつある現象だ。
ちなみにこれは完全な蛇足ですが、感情失認の概念を最初に体系化したシフネオスとネミアのペアは、もともとは心身症患者の夢の貧困さに着目したところから出発している。感情を言語化できない人は夢も語れない、という観察が面白い。夢を語る言葉を持てない人間が経営を語る言葉をどこまで持てるか、というのは別の問いとして立てておきたい。
トップの感情遮断が組織に伝播する機序、あるいはミームとしての抑圧
ドーキンスがミームという概念を提出したとき、彼が示したかったのは「文化的情報も遺伝子と同じように複製・選択・変異のプロセスを経る」ということだった。組織文化もまた、このミーム的な論理で動く。トップの行動様式は、観察・模倣・強化のサイクルを通じて組織全体に伝播する。
リーダーが感情を見せないとき、組織は何を学ぶか。「感情を出すことは弱さの表明だ」という命題を学ぶ。これは明示的に教えなくてもいい。トップが疲れた顔をしない、弱音を吐かない、悩みを見せない、それだけで十分だ。組織の成員たちは環境からのシグナルを読み取り、生存戦略として同じ振る舞いを採用する。
問題はここから先だ。感情を「出さない」文化が定着すると、心理的安全性という概念が根底から崩壊する。エドモンドソンの有名な研究を引くまでもなく、心理的安全性とは「失敗や不安や疑問を声に出せる」という土壌であり、その土壌がなければイノベーションはおろか、初歩的な情報共有すら劣化する。問題が起きていても誰も言わない。上司の判断がおかしいと思っても黙っている。顧客からのクレームがあっても報告が遅れる。
これはまさに、1984年のビッグ・ブラザー的支配が感情面で起きている状態だ。オーウェルが描いたのは外的な監視による抑圧だったが、組織の中で起きるのはより巧妙な自己検閲だ。誰も命令していない。ただ「そういう空気」がある。それだけで、組織の認知能力は静かに低下していく。
「強さ」の遺伝的アルゴリズムと、淘汰圧の誤設定
遺伝的アルゴリズムは、適応度関数の設定次第で全く異なる解に収束する。あたりまえのことだが、「何を強さとして定義するか」によって、組織の中で生き残る人材の型がまったく変わる。感情を見せないことが評価される組織では、感情を遮断できる人間が選択圧をくぐり抜け、管理職に昇進する。逆に、感受性が豊かで他者の内面変化を細やかに読める人間は「弱い」「鈍い」と評価される文脈から外れるか、離職する。
これが数世代にわたって繰り返されると、組織の遺伝子プール──比喩的な意味で──は極度に偏る。共感回路を使う人材が消え、抑圧を内面化した人材だけが残る。この状態の組織は、安定しているように見える。が、外部環境の急変に対する適応幅がきわめて狭い。ホメオスタシスは維持できるが、アロスタシス──変化する環境に対して動的に適応する能力──が失われている。
スパルタがそうだった。内部の規律は完璧だったが、変化する地政学的環境に適応できなかった。テーバイのエパメイノンダスが編み出した斜行陣によって、スパルタの重装歩兵隊は壊滅した。それまで機能していた「強さ」の定義が、環境変化によって一夜にして無効化された。組織の強さとは環境への適応幅のことであり、感情の遮断はその適応幅を一方向に狭める。
ストア哲学の誤読が経営者に蔓延している、という仮説
ここ数年、経営者の間でマルクス・アウレリウスとエピクテトスが流行っている。ストア哲学への回帰だ。これ自体は悪くない。「自分がコントロールできないことに煩わされるな」という命題は、認知行動療法の基礎とも重なる合理的な思想だ。
しかしその読まれ方に、私は少し引っかかりを覚える。ストアが「感情を持つな」と言っていたかというと、そうではない。彼らが目指したのはアパテイア──情動に「流される」ことからの自由──であって、感情の消去ではなかった。アウレリウスは「自省録」の中で、自分の怒り・悲しみ・疲労をかなり正直に書いている。感情を持ちながら、それに支配されない、という水準を目指していた。感情の遮断とはまったく別の地点だ。
ところが現代の受容のされ方を見ると、ストア哲学が「強さの哲学」「揺れない経営者のための教科書」として機能している節がある。これはおそらく意図的な誤読ではなく、強さへの渇望が先にあって、それを支持する形でストアが読まれているのだろう。これは余談ですが、思想というものは常にこの種の力学に晒されている。読者の欲望が、テキストを変形させる(笑)。
アウレリウスが実際に経営者の鑑であったかどうかも怪しい。彼の治世はローマ帝国の緩やかな衰退期に重なり、彼自身の後継者であるコンモドゥスは歴史に残る暗君だった。哲人皇帝が残したのは偉大な思想と、組織的な継承の失敗だ。父親の感情管理が息子に何を伝えたのか、私にはわからないが、何かを伝え損ねたのは確かだろう。
弱さを「処理できる」組織の構造について、あるいは攻殻機動隊が見せていたもの
攻殻機動隊の草薙素子は、私が最も繰り返し観察してきたフィクション上の人物の一人だ。笑(本当に何度も観ている)。彼女は感情を遮断しているように見えて、実は常に感情の余震を身体の中に抱えている。「ゴーストがささやく」という表現が示しているのは、言語化できない内側の揺れだ。彼女が強いのは感情を持たないからではなく、感情を抱えながら機能できるからだ。そしてその強さは、バトーとの関係性──弱さを晒せる一対一の文脈──があるから成立している。
組織において「弱さを処理できる」構造を作るとはどういうことか。それは「弱さを全員が見せ合う」文化を作ることではない。そうではなく、弱さが安全に扱われる文脈が組織の中に複数存在すること、だと私は考えている。一対一のメンタリング、匿名のフィードバック経路、外部のスーパービジョン構造。要するに「余剰の処理チャンネル」の存在だ。これは高分圧酸素が組織への酸素供給を高めるような話ではなく、むしろ逆で、感情の出口を複数持つことで組織全体の圧力が適正に保たれる、という話に近い。
トップが「強い」ことで組織の圧力を一人で吸収しようとすると、二つのことが起きる。一つは、トップ自身がその圧力の蓄積によっていずれ臨界に達すること。もう一つは、組織がトップへの依存を強め、圧力分散の能力を失うことだ。どちらも組織の長期的な持続性を損なう。これは神経系の話で言えば、一本の太い幹線だけで情報を処理しようとするアーキテクチャが、いかに脆弱かという話と同型だ。冗長性のないシステムは、必ず単一障害点に倒れる。
結語にかえて、あるいは神話が終わった後に何が残るか
「メンタルが強い経営者」という神話は、要するに強さと頑健性(ロバストネス)を混同したことから生まれた概念だと私は思っている。強さは個体の特性であり、しばしば脆さと裏表だ。頑健性はシステムの特性であり、多様性・冗長性・フィードバック機構の組み合わせによって生まれる。個体が強いことと、システムが頑健であることは、まったく別の話だ。
ニーチェが「力への意志」を語ったとき、彼が想定していたのも「揺れない人間」ではなかった。永劫回帰という最も残酷な問い──「この瞬間を無限に繰り返すことができるか」──に対して、それでも「然り」と言える人間のことだった。それは感情の遮断とは正反対の、感情を丸ごと引き受けた上での肯定だ。
神話が解体された後に何が残るか。それはおそらく、かなり地味な現実だ。経営者も揺れる。不安になる。判断を誤る。それを処理する構造を意図的に作るか作らないかが、組織の未来を分岐させる。英雄譚は不要で、設計が必要だ。そして設計を正しく行うためには、現実を正確に見る必要がある。現実の第一ステップは「神話を信じていた」という事実を、静かに認めることだ。
スパルタは何も残さなかった。アテナイは哲学と数学と演劇を残した。どちらが強かったかは、時間軸の取り方による。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








