1984年にオーウェルが描いた全体主義国家オセアニアで、もっとも恐ろしかったのは拷問でも監視でもなかったと私は思っている。もっとも恐ろしかったのは、人々が本気で党を信じるようになることだった。異議を持つこと自体が消滅した社会。ウィンストン・スミスが最終的に「2+2=5」を心から受け入れた瞬間、物語は終わる。拷問が終わった瞬間ではなく、疑いが終わった瞬間に。
私が会議室でたまに感じる薄ら寒さは、おそらくあの場面と地続きだ。全員がうなずいている。誰も反論しない。議事録には「全会一致で承認」と書かれる。それは本当に、全員が同じ結論に自律的に到達した奇跡なのか。それとも、すでに結論は決まっていて、会議という形式がその追認装置として機能しているだけなのか。
後者であれば、あの部屋で起きていることは「議論」ではない。それは儀式だ。宗教的な意味でそう言っている。儀式とは、すでに信じられていることを集団的に確認する行為である。新しい情報を処理する場ではなく、既存の秩序を強化する場。そう考えると、「健全な衝突がない会議」という現象は、単なる運営の問題ではなく、組織の認識論的な死を示すシグナルである可能性がある。
大げさに聞こえるかもしれない。だが少し待ってほしい。これは比喩の話ではなく、生物学的にも、歴史的にも、かなり文字通りの話だと私は考えている。
免疫系は「自己」を攻撃することで成熟する
胸腺という臓器がある。胸骨の裏あたりにある小さな器官で、T細胞の教育機関として機能している。免疫の話をするのに胸腺から入るのはやや迂回路に見えるかもしれないが、これが今日の核心に直結するので付き合ってほしい。
胸腺でT細胞が成熟する過程には、「負の選択」と呼ばれるプロセスがある。自己の組織に過剰反応するT細胞は、ここで排除される。一方で、まったく何にも反応しないT細胞もまた排除される。生き残るのは、適度に反応できるT細胞だけだ。過剰でも無反応でもなく、ちょうど機能する摩擦係数を持つ細胞群が、免疫の主力になる。
この話を会議室に持ち込むのは乱暴かもしれないが(笑)、構造的には同型だと思っている。組織の中に流通するアイデアもまた、何らかの「選択圧」にさらされなければ成熟しない。異議という摩擦にさらされることなく通過したアイデアは、胸腺教育を経ていないT細胞に似ている。一見、機能しているように見えて、実際の負荷がかかったとき——つまり現実と接触したとき——に想定外の反応を起こす。
ハーベイ・ライボウィッツという名の免疫学者が言ったかどうかは知らないが(私の作話かもしれない)、「摩擦なしに成熟した系は、摩擦に遭遇したとき過剰反応か無反応かのどちらかになる」という命題は、組織論として真実だと思っている。会議室で一度も反論されなかった戦略が、市場という現実に出たとき、なぜあそこまで脆いのかを考えると、この構造が透けて見えてくる。
グループシンクは「愚かさ」ではなく「適応」の産物である
1961年のピッグス湾侵攻作戦について考えることがある。ケネディ政権の精鋭たちが集まって策定した作戦が、なぜあれほど壊滅的に失敗したのか。後にアービング・ジャニスがこの事例を分析して「グループシンク」という概念を定式化した。集団の凝集性が高まるにつれ、メンバーは異議を自己検閲するようになる。「空気を読む」という日本語の表現は、実はこの現象の極めて正確な記述だ。
ここで多くの人が陥る誤解がある。グループシンクを「知性の低さ」や「勇気の欠如」として説明しようとする誤解だ。ケネディの側近たちは馬鹿ではなかった。臆病でもなかった。彼らは、集団の中で機能するために最適化されていただけだ。進化的な観点から言えば、集団からの排除は死に直結した時代が長く続いた。異議を唱えて孤立するリスクを回避するという行動戦略は、個体レベルでは極めて合理的だった。
つまりグループシンクは失敗ではなく、適応の成功例である。問題は、その適応が現代の組織環境に持ち込まれたとき、文脈の齟齬を起こすことだ。会議室で孤立しても、物理的には死なない。だが脳はそれを知らない。扁桃体は依然として「集団からの排除」を生命の危機として処理する。だから人は、間違っていると思っていても、手を挙げない。
これは余談ですが、私が産業医として企業に入るとき、会議の様子を観察するだけで組織の健康状態の7割くらいはわかると感じている。誰が発言し、誰が黙っているか。反論したとき、他のメンバーがどう反応するか。会議後の廊下でどんな会話が起きるか。診察室で患者の語りを聞くのと、構造的には同じ作業だ。本当のことは、公式の場では語られないことが多い。
「異議」を設計するということ——悪魔の代弁者とレッドチームの系譜
カトリック教会には面白い制度があった。聖人認定(列聖)のプロセスにおいて、「悪魔の代弁者」(Advocatus Diaboli)という役職が置かれていた。候補者の聖性に対して意図的に異議を唱え、反論を展開するための専門家だ。信仰の守護者たちが聖人を増やしたいと思っているその場で、構造的に反対意見を生産する役割を制度化した。
これは面白い発想だと思う。「自然に生まれる異議」を待つのではなく、異議を役割として設計した。思索の純度を上げるために、摩擦を外部からインストールした。この制度が1983年に廃止されたことは(ヨハネ・パウロ二世の改革による)、ある種の皮肉を含んでいる。以降、列聖のペースは加速した。
軍事の世界にも類似の構造がある。レッドチーム演習と呼ばれる手法で、自軍の計画に対して意図的に敵役を設定し、攻撃させる。NATOでも米軍でも制度化されているこの手法の本質は、「内部で意図的に失敗させることで、外部での失敗を防ぐ」ことだ。摩擦は、制御された環境で起こす方が、無防備な現実で起こるよりずっとコストが低い。
遺伝的アルゴリズムの話に接続してもいい。遺伝的アルゴリズムが最適解に収束できるのは、突然変異という「意図的なエラー」を組み込んでいるからだ。突然変異がなければ、局所最適解に収束して動かなくなる。組織の意思決定も、外部からの変異圧——すなわち異議——がなければ、同様に局所最適に固着する。これを「組織の知的な早期老化」と呼んでもいいかもしれない(笑)。
沈黙の全会一致が示しているのは、権力の構造である
では、健全な衝突が起きない会議は、なぜ起きないのか。参加者が異議を持っていないからではない。多くの場合、異議を表明することのコストが、表明することで得られる便益を上回っているからだ。
ここで問題は個人の勇気の欠如ではなく、組織の権力構造に移行する。心理的安全性という概念をエイミー・エドモンドソンが提唱したのは1999年で、その後グーグルのプロジェクト・アリストテレスによって広く知られるようになった。ただ私がこの概念に感じる若干の違和感は、「心理的安全性を高めましょう」という方向で語られるとき、それが技法の問題として矮小化されることだ。
心理的安全性の高低は、技法の問題ではなく権力関係の問題だ。異議を唱えた人間が、過去に何らかのペナルティを受けた組織では、どれほど「何でも言っていいですよ」と言われても、発言コストは下がらない。記憶は個人の中にあるだけでなく、組織の文化として集合的に共有されている。誰かが一度沈黙を強いられた場面の記憶は、その後何年も会議室に漂い続ける。
攻殻機動隊の草薙素子がある場面で言う。「人は見たいものを見て、信じたいものを信じる」——これは個人の認知バイアスの話であると同時に、組織の認識論的な構造の話でもある。見たいものしか見ない組織は、見たくないものを報告する人間を排除するインセンティブを内包している。そして排除が起きると、次の人間は自己検閲する。このループが完成したとき、会議は儀式になる。
それでも私は衝突を「健全」と呼ぶことに、若干の留保を持っている
ここまで衝突の必要性を論じておきながら、最後に別の角度から自分の論を疑ってみたい。
「健全な衝突」という言葉には、ある種の楽観主義が埋め込まれている。衝突が生産的になるためには、それを受け止める組織の構造的な成熟が前提として必要だ。衝突さえあれば良い、という話ではない。適切に処理されない衝突は、単なる損耗を生む。戦場で言えば、味方同士の誤射だ。
また、すべての組織が衝突を必要としているわけでもない。危機の真っ只中で、執行のスピードが生死を分ける場面では、議論の多様性よりも決定の速度が優先される。これは理解できる。問題は、危機でもない平時の意思決定において、「効率」という名目で衝突を排除し続けた結果、組織が危機認識能力そのものを失うことだ。平時に摩擦を嫌った組織は、危機において正確な情報が上がってこない状態に陥る。これは構造的に必然だ。
これは完全に蛇足ですが、高分圧酸素の話を思い出す。純粋な酸素環境は、通常の空気よりも「よく燃える」ように思えるが、実際には酸素中毒を引き起こし、細胞を破壊する。合意の純度を上げることもこれに似ていて、摩擦を完全に除去した組織環境は、短期的には効率的に見えて、長期的には組織の基礎代謝を蝕む。異論という不純物が、実は系を健全に保っていた、という逆説。
結局のところ、私が言いたいのは「異議を奨励しましょう」という話ではない——そういう結論を書くのは、この記事の文体的な倫理に反する(笑)。私が考えているのは、もっと根本的なことだ。
会議室の沈黙は、それ自体では何も語らない。だが、その沈黙の質を読むことはできる。考えている人間の沈黙か、諦めた人間の沈黙か、怯えている人間の沈黙か。その識別は、技法ではなく感度の問題だ。そしてその感度を持ち続けることが、組織というシステムの中で、ひとつの認識論的な誠実さだと私は思っている。それが何かを変えるかどうかは、また別の話として。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








