ダーウィンは「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き残るのでもなく、唯一生き残るのは変化できる者だ」と言った──と、よく引用される。ただしこれ、ダーウィン本人の言葉ではない。出典は諸説あるが、原典に当たると『種の起源』のどこにもそんな文章は出てこない。進化論の最も有名な「教訓」が、実はダーウィン自身の言葉ではないという事実は、なかなか示唆的だ。人間は都合のいい物語を権威に帰属させることで、その物語を固定化させる癖がある。
それはともかく、本当のダーウィン的な自然選択の論理はもう少し冷酷だ。生き残るのは「環境への適応度が高い個体」である。が、ここで見落とされがちな逆説がある。適応度が高い個体は、それゆえにより多くの資源を要求される。草原の最強の個体は、群れの先頭に立つことを強いられる。捕食者が来れば最初に戦い、食料が乏しければ最後に食べる。適応度とは、搾取の優先順位でもある。
私がこれを組織論の文脈で考えるようになったのは、産業医として多くの職場を見てきたからではなく(笑)、むしろ「なぜ壊れるのが常にあの人なのか」という問いが長く引っかかっていたからだ。休職する人間の顔ぶれは、驚くほど一貫している。遅刻常習犯でも、成果が出ない人間でも、上司に反抗的な人間でもない。几帳面で、責任感が強く、他者の期待に応えることに自己価値を置いている人間だ。つまり、組織が最も必要としている人間が、最も確実に消耗する。
これは偶然ではない。構造的な必然だ。
断れない人間は「インターフェースが優秀すぎる」
ソフトウェアの世界に「バッファオーバーフロー」という概念がある。プログラムが処理できる量を超えたデータを受信したとき、システムが想定外の挙動をする現象だ。セキュリティ上の脆弱性としても知られる。これは悪意ある攻撃者が利用することもあるが、そもそもの原因はシステムのインターフェースが外部からの入力を無制限に受け付けるよう設計されていることにある。
優秀な人間は、組織における「インターフェース品質が高い」状態にある。依頼を受ければ適切に処理し、クオリティの高いアウトプットを返す。応答速度が速く、エラーが少ない。当然、あらゆる送信元から依頼が集中する。問題は、このインターフェースに入力制限がかかっていないことだ。「断れない」という現象を心理学的に説明するとき、承認欲求や罪悪感という言葉が使われる。間違いではないが、それは個人の内面の問題として還元しすぎている。
より構造的に見れば、断ることは「インターフェースを閉じる」行為であり、それは組織の論理から言えば「機能の停止」に映る。優秀な個体が入力を拒否した瞬間、組織はそれを「故障」として解釈する。断らない限りは正常稼働しているように見える。つまり、断れないことは適応の証明であり、断れる人間は「使いにくい」と分類される。適応度の高さが、使い捨ての優先順位を決める。
ちなみに、これはAIの文脈でも面白い問題を孕んでいる。優秀なAIほど、あらゆるタスクに対応できるようトレーニングされる。が、そのために「できない」「やりたくない」という拒否応答を持たないシステムは、倫理的に問題のある要求にも応じてしまう。人間の「断れなさ」と、AIの「拒否不能性」は、構造的に同型の問題だ──これは完全に蛇足ですが、私はここに妙な親近感を覚えてしまう。
「よい兵士」のパラドックス──ニュルンベルクから産業医の外来まで
1961年、哲学者ハンナ・アーレントはアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、世界が戦慄した報告を書いた。「悪の凡庸さ」。アイヒマンは怪物ではなかった。命令に誠実に従い、与えられた職務を効率よく遂行した、ただの官僚だった。アーレントの観察の核心は、巨大な悪は必ずしも邪悪な意志から生まれるのではなく、「思考の停止」と「役割への過剰な同一化」から生まれるという点にある。
これを現代の職場に引き戻すとき、私は少し慎重になる。アイヒマンの比喩を軽々しく使うと文脈が暴力的になる。が、「役割への過剰な同一化」という機制は、優秀な社員の消耗構造と精確に重なる。
「自分がやらなければ誰がやる」「期待に応えるのが自分の役割だ」という思考は、倫理的に問題があるわけでもなく、病理でもない。それは強固な自己同一性の表現だ。が、その同一性が「役割」に過剰に縛られたとき、人間は役割の要求を自分の限界の手前で止める回路を失う。ミルグラムの電気ショック実験でも、被験者の多くは「権威ある役割から外れることへの恐怖」によって、明らかに有害な行動を続けた。役割は人間を動かす最強のアルゴリズムだ。そして時として、そのアルゴリズムは自滅的に動作する。
産業医の外来で私が幾度も見てきた光景は、これとほぼ同じ構造をしていた。過労で倒れた人間の多くが、最初に口にするのは自分の苦しさではなく「でも、チームに迷惑をかけてしまって」という言葉だ。崩壊の瞬間まで、彼らは役割を生きている。
組織のホメオスタシスは、誰かの消耗で維持される
生体のホメオスタシスという概念は美しい。体温、血糖、pH、浸透圧──これらは常に一定の範囲に保たれる。外乱があれば修正し、偏差があれば補正する。これが生命の安定性を保障する。しかし、このホメオスタシスはエネルギーなしには維持されない。ATPが消費され、臓器が働き続け、ある組織は優先的に保護され、別の組織は犠牲にされる。脳と心臓は最後まで血流を確保され、四肢は最初に冷える。
組織も同じ論理で動く。システムの安定はコストで買われ、そのコストは構成要素に不均等に配分される。問題は、誰がそのコストを支払うかだ。対応力の低い人間は、そもそも依頼が集まらない。指示を出すだけの人間は、消耗しない。コストは常に「受け取る側」に偏在する。そして受け取り上手な人間ほど、より多くのコストを引き受ける。
これはモラルの問題ではない。システムの問題だ。悪意ある上司がいなくとも、この構造は自然発生する。むしろ善意のある職場ほど、「あの人は頼れる」「あの人にお願いすれば安心」という好意的な評価のもとに、消耗の集中が進む。称賛は、負荷の正当化として機能する。
遺伝的アルゴリズムで言えば、適応度関数が「断らずに仕事を受ける」に設定された環境では、その形質を持つ個体が優先的に選択される。が、その形質は同時に、世代を跨ぐ前にその個体を消耗させる。集団の安定を保つために、最も適応した個体が最も速く消える。これを「消耗の適者生存」と私は呼んでいる──命名したのは今です(笑)。
「真面目さ」は生存戦略ではなく、系への最適化である
ここで少し立ち止まる。私は「断れない人間が悪い」とも「組織が悪い」とも言いたいわけではない。そういう単純な倫理の話をする気はない。もう少し奥にある問いを掘りたい。
「真面目さ」とは何か。責任感、誠実さ、期待への応答性──これらは個人の内的な美徳として語られることが多い。が、発達的に見れば、これらの多くは「そう振る舞うことで環境から報酬を得てきた」という学習の堆積だ。アタッチメント理論の文脈で言えば、「他者の期待に応えることで安心を得る」というパターンは、幼少期の養育環境の中で形成される。真面目さは美徳である前に、適応戦略だ。
問題は、その戦略が形成された環境(家庭・学校)と、それが展開される環境(職場・組織)の論理が根本的に異なることにある。家庭では、期待に応えることは愛着を保障した。学校では、成績を出すことは安全を保障した。職場では、期待に応えることは……何を保障するのか。
これは余談ですが、カフカの『審判』を初めて読んだとき、私はヨーゼフ・Kが何をしたのかより、なぜ彼が抵抗するのをやめてしまうのかに引っかかり続けた。彼は無実だ。が、「訴訟」というシステムに組み込まれた瞬間から、彼はそのシステムの論理に従って行動し始める。役割に適応することが、自滅の加速装置になる。組織の中で真面目に働き続ける人間の構造と、どこか重なる。
壊れた後に問うべき問い、壊れる前に問えなかった問い
休職した人間が回復期に入ったとき、多くの場合、「なぜ断れなかったのか」を問い始める。この問いは正しいが、遅い。壊れた後に自己分析しても、それは既に起きたことの後処理だ。より重要な問いは「なぜこの構造が、断れない人間を優先的に消耗させるように設計されているのか」という方向に向かなければならない。しかし、この問いを壊れる前に立てることは、構造の内側にいる人間には極めて難しい。
カミュは『シーシュポスの神話』で、岩を押し続けるシーシュポスを幸福だと言った。不条理を認識した上で、それでも岩を押す意志を持つこと。これはニヒリズムへの降伏ではなく、不条理の直視から始まる倫理だ。が、私が気になるのは、シーシュポスが「岩を押すことを断れたか」という問いだ。神から課せられた罰である以上、断る選択肢はそもそも存在しない。組織の中で「断れない」状態に置かれた人間は、シーシュポスに近い。神話的な意味での不条理を、日常のスケールで生きている。
幸福か不幸かという問いより前に、まずその構造を見ることが必要だと私は思う。処方箋を差し出すつもりはない。ただ、構造が見えていない場所では、問いも立てられない。問いが立てられない場所では、思索も生まれない。そして思索なき場所では、人間はただシステムの一部として、最適化の名のもとに消耗する。
最も優秀な兵士が最初に戦場に送られ、最初に倒れる。それを「英雄的」と呼ぶ語彙が存在する限り、この構造は再生産され続ける。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








