1848年、ヨーロッパ全土で革命の火が燃えた年、マルクスは「歴史はくり返す、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」という趣旨のことを書いた。ヘーゲルの引用を下敷きにした、あの有名な書き出しだ。私がこの言葉を思い出すのは、歴史の授業のときではない。職場の面談室で、疲弊しきった人間の目を見ているときだ。
「頑張れば報われる」という命題は、何度も死を宣告されながら、そのたびに別の形で蘇生する。高度成長期の終身雇用神話が崩れ、成果主義が導入され、それも機能不全を起こし、今度はウェルビーイングや心理的安全性という言語に衣替えして再登場する。茶番、と言い切るには少し酷かもしれないが、構造はほとんど変わっていない。頑張る人間が消耗し、消耗した人間が退場し、その空席に別の頑張る人間が入る。このサイクルに誰も故意に悪意を持っていない、というのが最も不気味な点だ。
私がここで解剖したいのは、「なぜ頑張る人が報われないか」という問いではない。それは既にさんざん語られている。私が興味を持っているのは、その一段上の問いだ。なぜその構造は、修正されることなく自己保存し続けるのか。搾取する側の悪意でもなく、搾取される側の無知でもなく、もっと生物学的で、もっと残酷な理由があると私は思っている。
これは告発文ではない。処方箋でもない。ただの解剖記録だ。
ホメオスタシスとしての「報われなさ」──システムは現状維持のために最適化されている
生理学の教科書に必ず出てくる概念がある。ホメオスタシス、恒常性維持機構だ。体温が上がれば発汗して冷やし、血糖が上がればインスリンが分泌される。身体は常に「今の状態を保つ」方向に動く。これは美しい設計だが、病理的な文脈では残酷な意味を持つ。うつ病の患者が「変わりたい」と言いながら変われないのも、慢性的なストレス環境から抜け出せないのも、ある意味ではこのホメオスタシスが働いているからだ。システムは、たとえそれが苦痛であっても、「今の状態」を維持しようとする。
組織も同じだ。「頑張る人が損をする」構造は、バグではなくフィーチャーとして機能している。頑張る人間が多く仕事を引き受けることで、他の人間の仕事量が減り、その他の人間が快適に存在できる。快適に存在している人間は現状を変えようとするインセンティブを持たない。変えようとするのは頑張って消耗した人間だけだが、その人間は変える前に燃え尽きて退場する。これが完璧なホメオスタシス回路だ。
ちなみに、この構造を「ゲーム理論」で記述しようとすると面白いことが起きる。頑張らない選択は個人にとって合理的であり続け、全員が同時に頑張らない選択をとれば集団は崩壊するが、崩壊する前に頑張る誰かが補填するので崩壊しない。これはナッシュ均衡の一形態に似ているが、均衡点が「頑張る少数が消耗し続ける点」に設定されているというのが残酷なところだ。経済学者たちはこれを公共財ゲームの悲劇として記述するが、私には「設計された悲劇」というより「設計されていない安定」に見える。意図がないのに安定している、というのが本当に厄介な点なのだ。
選択圧の逆転──「頑張ること」が進化的に不利になる条件
進化生物学に「不正直なシグナリング」という概念がある。クジャクの尾羽は、本来生存に不利なはずだが、あの巨大な羽を維持できるほど「余裕がある」ことを示すシグナルとして機能しているため、性選択上は有利になる。これをハンディキャップ原理という。ザハヴィが1975年に提唱した。
職場の文脈に引き直すと、こういうことになる。「頑張っている様子を見せる」ことと「実際に成果を出す」ことは、評価システムの中では等価に扱われるか、前者が有利になることすらある。長時間働く人間は「貢献している」と見なされ、短時間で同じ成果を出す人間は「まだ余裕があるはずだ」と判断されて追加業務を割り当てられる。つまり効率化は自分への罰になる。
これは企業倫理の問題ではなく、評価指標の設計ミスだと私は考えているが、「ミス」と呼んでいいかどうかも実は怪しい。指標を設計する側は多くの場合、現状の構造から利益を得ている人間だからだ。意図的な悪意がなくても、自分が利益を得ているシステムを変えようとするインセンティブは自然発生しない。これはホメオスタシスの話と地続きだ。
これは完全に余談ですが、攻殻機動隊の草薙素子が「人は見たいものしか見ない」と言っていたかどうか記憶が曖昧だが(笑)、評価する側が「見たいもの」として設定しているのが「頑張っている様子」である以上、その様子を最もコストなく演出できる人間が最も適応的になる、という倒錯した選択圧が発生する。現場の人間はその倒錯を肌で感じているが、言語化できないまま「なんか損している」という感覚として堆積していく。
「報われる」という概念の起源を問うこと──ピューリタニズムからウェルビーイングまでの系譜
マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘したことは、今でも有効だと私は思っている。カルヴァン主義における「予定説」──神に救済されるかどうかは既に決まっている──という教義が、逆説的に「自分が救済されていることを証明するための勤勉」を生み出した。つまり努力は神への祈りではなく、自分が既に選ばれていることの確認作業だった。
これが面白いのは、「頑張ること」が目的化した瞬間から、「報われること」は付随的なものになる構造が生まれた点だ。頑張ること自体が価値を持ってしまうと、報われなくても頑張り続ける理由が内在化される。これは宗教的な自己強化回路だが、世俗化した現代の職場でも同型の回路が走っている。「頑張っている自分」に同一性を見出してしまった人間は、頑張ることをやめることが自己崩壊と等価になる。
ウェルビーイングとかエンゲージメントとか心理的安全性という概念が企業に輸入されてきた背景には、「頑張り続けることのコスト」への対処という動機がある。しかしここに巧妙なすり替えが起きている。心理的安全性が確保された職場では「頑張り続けることへの疑問」を言語化できるようになるはずだが、実際には「より持続可能に頑張れる環境」として実装されることが多い。根を短く保ちながら、同じ方向に水を送り続ける灌漑システムの改良、みたいなものだ。土の性質は変えない。
1984年的な静寂──「問うこと」が消費される仕組み
オーウェルの「1984年」でウィンストン・スミスが最終的に辿り着く結末は、拷問による転向ではなく、「ビッグ・ブラザーを愛すること」だ。外部から強制されたのではなく、内側から生成された服従。これが全体主義の完成形だとオーウェルは書いた。
「頑張る人ほど報われない」という問いが放置される理由の一つは、その問い自体が「消費」されるからだと私は思っている。不満は言語化されたとき、ある種のガス抜きとして機能する。1on1ミーティングで「最近どうですか」と聞かれ、「少し疲れていて、頑張りが評価されていない気がして」と答え、「それは辛かったね、少し仕事量を調整しようか」と言われたとき、不満は処理された感覚になる。しかし構造は変わっていない。
これは陰謀ではない。善意から生まれた会話が、結果として構造変革のエネルギーを個人的な解消に転換してしまう、という機能的な問題だ。問いが個人化されるとき、構造は安全になる。「なぜ私は頑張っても報われないのか」という問いは処理可能だが、「なぜこの組織は頑張る人間を消耗させる構造を維持しているのか」という問いは、答えるとコストがかかる。だから前者に誘導される。意図がなくても、そうなる。
これは余談ですが(笑)、Animatrixの「セカンド・ルネッサンス」で人類がマトリックスに接続されていく過程も、暴力的な征服というより、「快適な現実」の提供という形をとっていた。抵抗のエネルギーは、快適さへの適応によって静かに消費される。これはSFの話だが、隠喩としての精度は高い。
修正されない理由の核心──変化のコストは常に局所的に課金される
遺伝的アルゴリズムという最適化手法がある。ランダムな変異と選択をくり返すことで、解空間を探索する。しかしこのアルゴリズムには弱点がある。局所最適解に捕まると、そこから抜け出すためには一時的に「悪化」を許容しなければならない。より高い山に登るためには、今いる丘を降りる必要がある。
組織の構造変革が起きない理由の核心はここだと私は見ている。構造を変えるコストは、変化を起こしている最中に特定の個人や部門に集中して課金される。変化が完成したあとのベネフィットは拡散するが、変化の痛みは局所的だ。だから「変えようとした人間」が先に消耗する。これは組織の悪意ではなく、変化の時間構造の問題だ。
歴史を振り返ると、構造変革が起きたときのほとんどは、局所的なコストを引き受ける覚悟を持った少数の人間が存在した。ウィルバーフォースが奴隷制度廃止のために30年以上議会で戦い続けたのも、ゼメルワイスが産褥熱の原因を主張し続けて精神病院で死んだのも(これは本当に残酷な話だ)、変化のコストが発生する場所に自発的に立ち続けた、という点で共通している。問題は、現代の組織がそのコストを引き受ける人間を構造的に消耗させ、退場させてしまうことだ。
だとすると、問いはここに収束する。変化のコストを局所集中させる構造を変えるためのコストは、いったい誰が引き受けるのか。そしてそれを引き受けた人間は、また消耗して退場しないか。これは再帰的な問いで、きれいな答えがない。あるいは、きれいな答えを期待すること自体が、既に何かに誘導されているのかもしれない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








