ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたのは、恐怖によって言語を消去する体制だった。だが私が診察室や組織の現場で繰り返し目撃するのは、もう少し手の込んだ抑圧である。誰も怖くない。誰も怒っていない。むしろ全員が笑顔で、昼食をともに食べ、退勤時には「お疲れ様でした」と言い合っている。問題が存在しないのではなく、問題を口にすることのコストが、沈黙のコストを常に上回っている、という構造だ。これはオーウェル的な暴力より、おそらく発見が遅れる。
「うちの会社は雰囲気がいいんですよ」という言葉を、私は無条件に信用しないことにしている。もちろん、その言葉が純粋に事実を指している場合もある。ただ、産業医として複数の組織の内側に立ち続けた経験から言うと、「雰囲気がいい」という形容詞は、ときに「摩擦がない」という意味であり、「摩擦がない」とはときに「摩擦を生み出す発言が自主規制されている」という意味になる。この三段論法を最初から疑わずに済む人間は、まだその組織の内部にいたことがない人間だろうと思っている。
哲学的に言えば、これはハーモニーとコンセンサスの混同である。ハーモニーは複数の声が緊張を保ちながら共存する状態を指す。コンセンサスは合意だが、沈黙によるコンセンサスは、意見の収束ではなく意見の消去によって達成される。グレゴリオ聖歌は美しいが、全員が同じ音しか出せないオーケストラは、そもそもオーケストラではない。笑
今日は、この「雰囲気のよさ」が持つ暗部について、少し遠回りをしながら考えてみたい。遠回りと言っても、私の場合は生物学と歴史と多少のSFが混入するので、うんざりする方はここで閉じていただいて構わない。
集団は、和を乱す遺伝子を淘汰するように設計されている
進化生物学的に見ると、人間の社会性は「集団から排除されないこと」への強迫とほぼ同義に発達してきた。ロビン・ダンバーの研究が示した「150人」という認知的集団サイズは、単に脳の情報処理能力の限界を示しているだけではない。その規模の集団の中で、個体は絶えず「自分がどう見られているか」を計算しながら行動するように最適化されている。不和を起こす発言は、この計算において常に高コストだ。
遺伝的アルゴリズムの言葉を借りれば、「和を乱さない」という形質は、集団内でのフィットネスを高める。問題を指摘する人間より、問題を黙認する人間の方が、短期的には集団内での地位を安定させやすい。これは個人の道徳的な問題ではなく、設計の問題である。私たちは生物として、集団の摩擦を最小化する方向にバイアスされている。その結果、組織という人工的な集団の中でも、同じ淘汰圧が働く。
問題を最初に口にした人間がどうなるか。その人が「組織の問題を発見した英雄」になるか、「空気を読めない人間」になるかは、組織の文化によって決まる。そして文化は多くの場合、過去の反応の蓄積によって形成されている。以前誰かが問題を指摘して、それが潰された経験が組織内に記憶として残ると、次の人間は発言する前にその記憶を参照する。これは学習である。ただし、機能不全を学習している。
ニーモラーの詩と、傍観者効果の組織版
マルティン・ニーモラーの有名な詩がある。ナチスが共産主義者を連行したとき、私は声を上げなかった。社会民主主義者が連行されたとき、私は声を上げなかった。そして彼らが私を連行しに来たとき、もう声を上げる者は残っていなかった、というあれだ。
これを組織の文脈に引き寄せると、かなりの精度で機能する。ある部署の問題が放置されたとき、別の部署の人間は「自分には関係ない」と沈黙する。次に別の問題が起きたとき、また沈黙する。この連鎖の中で、沈黙すること自体が「この組織における正しい振る舞い」として強化されていく。ニーモラーが描いたのは恐怖による服従だったが、組織の場合は恐怖ですらない。「波風を立てることへの漠然とした不安」で十分に機能する。
心理学で言う傍観者効果、つまりキティ・ジェノヴィーズ事件で有名になったあの「周囲に人が多いほど誰も助けない」という現象は、組織の問題放置にも当てはまる。責任の分散は、集団が大きくなるほど強く働く。全員が問題を認識しているのに、誰も口を開かない状態は、傍観者効果の組織版として理解できる。そしてこの状態は、外から見ると「雰囲気がいい組織」に映ることがある。笑えない話だが、笑。
ホメオスタシスとしての「問題の定常化」
生理学にホメオスタシスという概念がある。体温を37度付近に保つ、血糖値を一定範囲に収める、といった恒常性維持のメカニズムだ。これは生体が生存するための基本的な設計だが、組織にも類似のメカニズムが存在する。問題が起きたとき、その問題を「なかったことにする力」が働く。
これは個人の怠惰ではなく、システムの恒常性維持として機能している。組織の文化が「問題を表面化させないこと」をデフォルト状態として設定してしまうと、問題が発生するたびに、その問題を定常状態に戻す力が働く。これを私は「問題の定常化」と呼んでいる。問題が解決されるのではなく、問題が「見えない状態」が維持される。そしてこの状態のとき、組織は往々にして「雰囲気がいい」と形容される。
これは完全に蛇足ですが、Animatrixの「セカンド・ルネッサンス」を思い出す。機械が人間に従属する状態が定常化されていた時代、その抑圧は日常の風景に溶け込んでいた。問題が問題として認識されないのは、問題が消えたからではなく、問題を問題と命名することが禁じられているからだ。蛇足でした。
問題の定常化が進んだ組織で起きることは、フィードバックループの喪失である。問題が可視化されないと、改善のための情報が経営層に届かない。フィードバックのない系は、外部環境の変化に対応できずに劣化していく。これは熱力学的な話でもある。閉じた系はエントロピーが増大する。問題を外部に放出するフィードバック経路を持たない組織は、内部に無秩序を蓄積していく。
「心理的安全性」という言葉が滑走する現場
エイミー・エドモンドソンが「心理的安全性」という概念をハーバードのリサーチから提唱して以来、この言葉は日本のビジネス界でも頻繁に使われるようになった。ただ、この言葉が使われる文脈を観察していると、しばしばその本来の意味が滑脱していることに気づく。
エドモンドソンが言う心理的安全性は、「何を言っても怒られない」という意味ではない。リスクを取った発言や行動が、集団から否定的に評価されないという信頼感を指している。つまり、問題を指摘したことで、「あいつは問題人物だ」とラベルされない環境の担保だ。これは笑顔が多い環境や、飲み会の参加率が高い環境とは、まったく別の話である。
実際、Googleがプロジェクト・アリストテレスで明らかにしたのも同じことだ。高いパフォーマンスを出すチームの共通点は、仲の良さでも優秀さでもなく、心理的安全性だった。そして心理的安全性は、「摩擦がないこと」とは根本的に相反しうる。むしろ適切な摩擦が存在することで、心理的安全性は機能する。問題を指摘する行為が、チームへの貢献として受け取られる文化がなければ、心理的安全性はただの「御用概念」に成り下がる。
ちなみに、この文脈で「うちは心理的安全性が高い」と自己申告する組織ほど、私は慎重に接する。本当に心理的安全性が担保されている環境では、「心理的安全性が低い」という声も上げられるはずだからだ。逆説的だが、「心理的安全性は高い」という全員一致の申告は、むしろ沈黙の均衡を疑わせる証拠になりうる。
沈黙が積み上げた組織は、どう崩壊するか
歴史的に、問題を内部に蓄積した構造がどのように崩壊するかを見ると、一つのパターンがある。崩壊は突然に見えるが、内部では長期にわたって積み上げられた歪みが、ある閾値を超えた瞬間に一気に表出する。これは物理学的に言えば相転移であり、生物学的に言えば臨界点を超えた免疫崩壊に近い。
ソ連の崩壊を論じたとき、多くの歴史家が指摘したのは「雰囲気の良さ」ではないが、「体制の安定感」という幻想が崩壊直前まで維持されていたことだ。内部の歪みは外部から見えにくく、内部の人間にとっても「これが普通だ」という認識が定常化されていた。ゴルバチョフのグラスノスチが機能したのは、それまで蓋をされていた問題の表面化を許容したからだ。蓋を開けたら、蓄積された圧力が一気に噴出した。
組織の崩壊も、似たプロセスをたどることが多い。問題が表面化したとき、「なぜ誰も言わなかったのか」という問いが生まれる。しかし答えは単純で、言える構造ではなかったか、言った人間が消えていったかのどちらかだ。雰囲気がよかったから、問題がなかったわけではない。雰囲気がよかったから、問題を口にする人間が自然淘汰されていたのかもしれない。
不快という情報の、静かな擁護
私がここで何かを提案するつもりはない。提案という形式は、思索を途中で切断する。ただ、一つのことは言えると思っている。不快さは情報である、ということだ。
痛みは組織にとっての侵害受容器官に相当する。痛みを感じない先天性無痛覚症の人間が、傷に気づけないまま組織を壊していくように、問題を不快として感じる機能を失った組織は、内部の損傷に気づけなくなる。鎮痛剤で痛みを消すことは、ときに必要だ。しかしその痛みが何を告げているかを聞く前に消すと、原因はそのまま進行する。
「雰囲気がいい」という状態を維持することへの組織的なコミットメントは、鎮痛剤の恒常的な投与に近い。気分はよくなる。表面は穏やかに見える。そして診断の機会は、毎回失われていく。
近澤徹が組織について最終的に何を思うか、と問われれば、おそらくこう答えると思う。最も危険な組織は、怒鳴り声が飛び交う場所ではなく、全員が静かに微笑んでいる場所かもしれない。もちろん、それが本物の安心から来る微笑みである可能性も、捨てていない。問題は、その微笑みが何から来ているかを、外側から判断する手段が、私たちにはほとんどないことだ。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








