ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」と書いた。これはもちろん言語哲学の文脈で語られる命題だが、私はこれを読むたびに、管理職という職能について考える。彼らの多くは、自分が持っていない語彙で語られる現象を、文字通り「見ることができない」。見えないのではなく、見る道具がない。それは怠慢ではなく、ある種の認識論的な構造問題だ。
診察室というのは不思議な空間で、人はそこで突然泣く。それも、「ここで泣いてください」と誰かに誘導されたわけでもなく、ただ問診票を書いたり、私が二言三言聞いたりしただけで、堰を切ったように泣く。面白いのは、泣いた本人が一様に「なぜ泣いているのかわからない」と言うことだ。これは嘘でも謙遜でもない。本当にわかっていない。ある意味で、身体の方が先に知っている。
この現象をもって「メンタルが弱い」と評する管理職が、いまだに相当数存在する。私がここで怒りを表明するつもりはない。怒りは認識を歪める。ただ構造として指摘したいのは、その評価が根本的に間違った単位で行われているということだ。「弱い」という形容詞は、個体の属性を指す。しかし診察室で泣いている人の多くは、個体の問題ではなく、システムの問題を身体で引き受けている存在だ。
そこに気づかない管理職を責める前に、私は少し立ち止まって考える。彼らは何故、見えないのか。
ホメオスタシスの外側で起きていることを、内側から知覚するのは難しい
生物学的な話をする。ホメオスタシス、つまり恒常性維持機能というのは、システムが安定した状態を保つために働く調整機構だ。体温が上がれば汗をかき、血糖が上がればインスリンが出る。これは非常に洗練されたフィードバックループで、「問題が起きていないように見える」状態を維持するために設計されている。
人間の組織も同じだ。表面上は機能している。締め切りは守られ、会議は開かれ、売上は一応達成されている。ホメオスタシスは働いている。だが、そのホメオスタシスを維持するために、特定の個人が過大なコストを払い続けている、という事態が起きていても、システム全体の観測値には現れない。むしろ、現れないように見える。
管理職が見ているのは、このシステムの出力値だ。KPI、稼働率、欠勤日数、売上達成率。それらが正常値を示している間は、システムは「健全」に見える。問題は、これらの指標が個体の限界突破によって維持されているコストを一切可視化しないという設計上の欠陥だ。弱いバネを引き延ばし続けることで形を保っている構造物は、破断する瞬間まで「正常」に見える。
これは余談だが、かつてチャレンジャー号の爆発事故において、技術者たちはOリングの問題を事前に指摘していた。しかし組織の意思決定層は「これまで問題なかった」という過去の出力値を根拠に、打ち上げを強行した。ホメオスタシスの継続が、リスクの不可視化を生んだ典型例だ。診察室の外で起きていることは、構造的にはあれと大差ない。(これは完全に蛇足ですが、あの事故の本質は技術の失敗ではなく情報の流れの失敗だったと私は思っている。そして組織というものは、都合の悪い情報ほど上に届きにくい構造を自然に形成する。)
「普通の人」という概念の欺瞞性について
私が診察室で会う人の多くは、誰がどう見ても「普通の人」だ。学歴があり、社会性があり、これまでそれなりにうまくやってきた人たちだ。彼らが泣くとき、その泣き方には共通点がある。「自分がこんなことになるとは思わなかった」という驚きを、泣きながら表明する。
これは非常に示唆的だ。彼らは自分を「普通の人」だと思っていた。そして「普通の人」はこうならないはずだ、という暗黙の前提を持っていた。だからこそ、この状態にある自分に驚いている。
ここに二重の誤謬がある。一つは、「普通の人はこうならない」という誤った命題。もう一つは、「普通であること」が何らかの保護因子であるという幻想だ。実際には逆だ。適応能力が高く、社会的に機能できる人ほど、限界に気づかずに走り続けられる。ガスケットが高品質なほど、破断するまで異音を立てない。
遺伝的アルゴリズムの話をすると、進化というのは「最適解」ではなく「現環境への適応解」を選択する。現環境が変わると、かつての適応解が致命的な弱点になることがある。「真面目で几帳面で責任感が強い」という特性は、安定した環境では強みだが、過負荷状態では自己破壊の引き金になる。これを「弱さ」と呼ぶのは、アルゴリズムへの理解が根本的に欠けている。
管理職の認識論的ポジションを解剖する
管理職というポジションには、構造的な知覚の歪みが埋め込まれている。これは個人の資質の問題というよりも、ポジション特有の情報環境の問題だ。
まず、管理職は「管理できている」という自己評価バイアスを持ちやすい。組織が機能しているという事実が、自分の管理能力の証拠として解釈される。つまり、部下の献身的な働きによって維持されているシステムの安定を、自分のマネジメントの成功として誤読する。これはアトリビューション・エラーの一種だが、組織という文脈では驚くほど普遍的に起きる。
次に、管理職のサバイバーシップの問題がある。管理職になった人は、多くの場合、「自分が限界だと感じても仕事を続けられた人」だ。これは選択効果で、彼らの経験からすると「しんどくても続けられる」は達成可能な目標に見える。しかし、彼らが経験していない閾値を超えたときに何が起きるかを、彼らは知らない。ジョージ・オーウェルが101号室で描いたのは、個人の恐怖の最深部だったが、管理職が見ていないのもまさにそこだ。各人の101号室。それぞれ違う場所にある。
ちなみに、これは私が診察でよく経験することだが、「うちの職場には問題がある」と認識している管理職ほど、実際には部下の状態を把握している場合が多い。問題なのは「うちは大丈夫」という確信を持っている管理職だ。確信は知覚を停止させる。(笑)
泣くという行為の情報量について
泣くことを「感情の暴走」や「コントロールの喪失」と解釈するのは、現象の表面しか見ていない。私は泣くという行為を、内部状態の限界超過を示す高密度の信号として理解している。
情報理論の言葉を借りると、人間というシステムは通常、内部状態を言語や表情という低コストのチャンネルで外部に伝達する。しかし内部状態の振幅が通常のチャンネルの処理能力を超えたとき、より高コストで制御困難なチャンネル、つまり身体反応が起動する。泣く、震える、声が出なくなる。これは「弱さ」ではなく、システムが持つ最後の通信手段だ。
診察室という場所は、この信号が初めて受信される場所として機能することが多い。なぜか。職場では、この信号を送ることのコストが高すぎるからだ。「泣いたら終わり」という職場文化は、最も重要な情報チャンネルを意図的に遮断している。これはシステム設計として、相当に愚かしい。愚かしいと言うと語弊があるかもしれないが、私は他にうまい言葉を持っていない。
攻殻機動隊に「ゴースト」という概念が出てくる。義体化が進んでも残存する自我の核、とでもいうべきものだ。泣いている人が伝えているのは、まさにその「ゴースト」の信号だ。機能としての自分は動いている。しかしゴーストは悲鳴を上げている。管理職が見ているのは義体の動作状態であって、ゴーストの状態ではない。
では何が起きているのか、ということの構造的整理
ここまで書いてきたことを一度整理する。ただし、整理することで何かを「解決」しようとしているわけではない。構造が見えることと、問題が解けることは別の話だ。
診察室で「普通の人」が泣く理由は、単純だ。安全に泣ける場所がそこしかなかったからだ。これは個人の問題でも管理職の問題でもなく、泣くという行為が「許容される空間」が職場に存在しないという、組織文化の問題だ。もっと正確に言えば、「弱さを見せること」と「信頼を失うこと」が接続されている文化の問題だ。
スピノザは、感情を「理性の欠如」と見なすのではなく、「身体の力能の変化」として記述した。これは17世紀の哲学者がデカルト的な心身二元論に抗って提示した視点だが、今も有効だ。泣くことは理性の失敗ではなく、身体がある状態にあることの表出だ。その状態をどう評価するかは、その評価者の世界観によって決まる。
管理職が「弱い」と見るとき、彼らはデカルト的な人間観を無意識に採用している。身体と感情を制御すべき対象と見る、あの古くて根強い世界観。そしてその世界観が、診察室に送り込まれる人を量産している。
ジョン・スチュアート・ミルは功利主義の文脈で「豚として満足しているより、ソクラテスとして不満足であるほうがよい」と言ったが、私はこれを組織の文脈でこう変換したい。機能しているように見えるシステムより、機能不全を正直に表出しているシステムの方が、長期的には健全だ、と。(笑)もちろんミルはそんなことは言っていない。完全に私の改変だ。
泣いている人が職場にいるとき、それは何かが終わりに近づいているサインではなく、何かがようやく言語化されようとしているサインかもしれない。どちらに解釈するかで、その後の組織の運命は大きく変わる。私はそう観察している。ただ、観察しているだけだが。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








