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リスキリングという名の懲役——学習が罰になる組織で、人間はどこへ行くのか | Medi Face Journal | メディフェイス・ジャーナル

リスキリングという名の懲役——学習が罰になる組織で、人間はどこへ行くのか

1984年にオーウェルが描いたのは、思想警察が監視する全体主義国家だったが、私が興味を持つのはむしろその周辺装置の方だ。ニュースピーク、二分間憎悪、記憶穴——いずれも暴力ではなく制度としての暴力であり、被害者が自発的に参加するという構造を持っている。強制収容所ではなく、参加者が「これは自分のためになる」と信じながら自分を壊していく装置。リスキリングという概念を見るたびに、私はこの構造の匂いを嗅ぐ。

誤解を招く前に言っておくが、学習そのものを否定したいわけではない。人間が新しい概念を取り込み、既存の認知地図を更新していくプロセスは、生物学的に見ても美しい現象だ。神経可塑性の観点から言えば、成人脳においても適切な刺激と休息のサイクルがあれば、樹状突起の分岐は起こり続ける。問題は刺激ではなく、刺激の文脈だ。

現在、日本の企業現場でリスキリングと呼ばれているものの多くは、その文脈が完全に狂っている。学ぶことの喜びや知的好奇心を起点にしていない。「お前はこのままでは使えなくなる」という宣告の後に差し出される、免罪符としての研修プログラムだ。これは教育ではない。これはベンサム的な功利計算に基づいた、コストの低い懲罰システムだ。

どのくらい精密に人を壊すか、という話をしたい。

スキナーの箱とDX研修——条件付けの失敗について

B・F・スキナーはオペラント条件付けの実験で、報酬と罰のタイミングが行動形成に与える影響を詳細に記録した。ここで重要なのは、罰は行動を消去するが、望ましい代替行動を生成しないという非対称性だ。「ダメだ」と言われることで人は止まるが、「ではどうすべきか」は別の回路が必要になる。ところがリスキリングの現場では、この二つが混在している。「お前のスキルは陳腐化した(罰)、だからこれを学べ(命令)」というメッセージは、心理的には報酬も確かな方向性も欠いた、純粋な罰の連鎖として受け取られる。

実際、2022年にMITスローン・マネジメント・レビューが発表した調査では、企業主導のリスキリングプログラムの完了率は平均で20%台に留まり、完了者のうち実際に新しい職務に移行できたのはさらにその半数以下だった。残りの人間はどこへ行くのか。彼らはプログラムの「失敗者」としてラベリングされ、キャリアの棚の隅に置かれる。学ぶ前より悪い場所にいる。スキナーが見たら「実験の設計が間違っている」と一言で片付けるだろう。

これは余談ですが、スキナーは晩年に「ウォールデン・ツー」という小説を書いていて、行動工学によって設計された理想社会を描いた。あの小説が読む者をどこか薄ら寒くさせるのは、登場人物がみな幸福そうなのに、誰一人として「なぜ幸福なのか」を自問しないからだ。リスキリングを善意で推進している経営者の一部は、あの小説の設計者に似ている。悪意がないぶん、質が悪い(笑)。

学習の生態学——適切な環境なしに種は育たない

生態学的ニッチという概念がある。ある生物が生存・繁殖できる環境条件の多次元的な空間のことだ。重要なのは、ニッチは生物の「能力」だけでなく、環境との相互作用によって決まるという点だ。同じ種でも、環境が変われば別の生物のように振る舞う。人間の学習も同じ構造を持つ。学ぶ「能力」と学べる「環境」は分離できない。

ところが企業のリスキリング論は、ほぼ例外なく能力側だけを問題にする。「学ぶ意欲が低い」「変化への抵抗がある」「デジタルリテラシーが不足している」——これらはすべて個体の問題として定式化される。環境については語られない。あるいは「環境を整えます」と言いながら、整えるのはeラーニングのプラットフォームと受講管理システムだけだ。それは生態学的ニッチを拡張したのではなく、標本箱を新調しただけだ。

私が産業医として複数の組織を見てきた経験から言うと、リスキリングが最も深刻な害をもたらすのは、中間管理職の層だ。40代・50代で、現場の知識は豊富だが、その知識が「古い」と宣告された人々。彼らが研修室に送り込まれる時、失われるのはスキルのギャップではなく、自己効力感の基盤そのものだ。アルベルト・バンデューラが自己効力感について言ったことを思い出す——人は「できる」という感覚を失うと、挑戦そのものをやめる。新しいスキルが身につく前に、学ぶことへの回路が焼き切れる。

罰としての時間——サルトルが「強制された自由」と呼んだものについて

サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。実存主義の文脈では、これは重い宣言だ。自由であるとは、選択の責任から逃げられないということだ。ところが「リスキリングせよ」という命令の下では、この構造が奇妙に反転する。受講は「任意」とされる。しかし受講しない者のキャリアパスは静かに閉じられていく。これはサルトルの言う自由ではなく、選択肢のない選択だ。形式的には自由、実質的には強制——これをニュースピーク的と呼ばずして何と呼ぶか。

時間の問題も深刻だ。多くのリスキリングプログラムは業務時間外に設定される。あるいは業務時間内に設定されているが、業務量は変わらない。つまり人は、疲弊した状態で、自分の余暇を削り、自分が「使えない」と宣告されたことへの怒りを抑圧しながら、eラーニングの画面をクリックし続ける。この状態で神経可塑性が高まると思うほうがどうかしている。高分圧酸素下では酸素中毒が起きるように、過負荷の学習環境は神経系を活性化するどころか防衛反応を引き起こす。人は情報を遮断し始める。それは怠惰ではなく、ホメオスタシスだ。

Animatrixの「二〇〇〇年代後半」——機械に仕事を奪われる側の話

AnimatrixのThe Second Renaissanceは、人間と機械の関係が逆転するまでの経緯を描いたエピソードだが、私がいつも気になるのはその序盤だ。機械に仕事を奪われた人間が街頭に溢れ、暴動が起き、それでも社会は機械の利便性を手放さない。あの描写は寓話ではなく、構造的な予言だったのかもしれない。

リスキリングという言葉が急速に広まったのは、自動化・AI化の波が実感を持って迫ってきた時期と完全に重なる。これは偶然ではない。技術による雇用の代替が不可避であるという認識が広まった時、社会が選んだ解決策は「人間を機械に合わせてアップデートする」というものだった。発想の方向が完全に間違っている、とは言わない。だが、その責任を個人に帰属させる論理は、構造的な問題を個人の失敗として解釈し直す認知的なすり替えだ。

ちなみに、グレゴリー・ベイトソンは「学習のレベル」を分類した。ある刺激に対してある反応をすることがレベル1の学習だとすれば、「学習の文脈そのものを変える」のがレベル2の学習、そして「どんな文脈においても学習できる構造を持つ」のがレベル3だ。現在のリスキリング政策はほぼ全てレベル1の設計しかしていない。特定のツールを使えるようにする、特定の知識を暗記させる——それは組織が変わるたびに、また別の研修が必要になる構造だ。永久機関の設計を目指しながら、毎回燃料を補充し続けているようなものだ(笑)。

それでも問うべきこと——罰が学習に変わる条件について

では何が違うのか、という問いを立てることはできる。ただし私はここで「こうすれば解決する」とは言わない。それは私の役割ではないし、その種の断言は問題の複雑さを損なう。

ただ、観察として言えることがある。罰としてのリスキリングと、学習としてのリスキリングを分けるのは、プログラムの内容でも講師の質でもなく、当事者が自分の問いを持っているかどうかだ。自分が何を知りたいのか、なぜこの知識が自分の世界を変えうるのか——その感覚がある状態で新しい情報に触れると、人間の認知は全く異なる動き方をする。アントン・チェーホフが「問いに答えることより、正しく問うことが重要だ」と書いたのは文学的な文脈だったが、神経科学的にも防衛できる命題だと私は思っている。

問題は、組織がその「問いを持つ時間」を与えないことだ。いや、与えないというより、与え方を知らない。あるいは、問いを持った人間は管理しにくいという本能的な恐怖があるのかもしれない。自分で考える人間は、与えられたプログラムを素直にこなさない。それは組織にとって都合が悪い。だから問いを持たせず、答えだけを詰め込む。詰め込まれた答えは、問いのない頭の中で腐っていく。

リスキリングが罰になっている組織で、私が最も気になるのは、個人の疲弊よりも、その組織が将来どんな人間を生産し続けるのかという問いだ。問いなく答えを詰め込まれた人間が管理職になり、また同じことを下の世代に繰り返す。遺伝的アルゴリズムが局所最適解に収束してしまい、大域最適解に向かって探索を続けることをやめてしまう状態——あれに似ている。変異が起きない個体群は、環境が変わった瞬間に絶滅する。

私はその未来をニヒルに眺めているわけではない。ただ、解決策を提示できるほど楽観的でもない。根拠のある絶望の上に立つとすれば、それはこういうことだ——人間は本来、学ぶ生き物だ。その事実は変わらない。変えなければならないのは、学習を罰として設計し続けている側の想像力だ。そしてその想像力の欠如は、スキルの問題ではなく、人間への関心の問題だ。リスキリングが必要なのは、もしかすると、プログラムを設計している側かもしれない。

── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。

著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。

近澤徹 医師の写真

医師監修:精神科医 近澤 徹

Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。

  • 医療法人鳳應会 理事長
  • 北海道大学医学部卒
  • 慶應義塾大学病院
  • 東京女子医科大学病院 研究員
  • 名古屋市立大学病院 客員研究員
  • 日本医師会認定産業医 / 精神科医
  • 株式会社Medi Face 代表取締役医師
  • 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
  • Z産業医事務所 代表医師
  • Medi Lex 代表医師
  • 須賀法律事務所 顧問医師
  • 日韓美容医学学会 常任理事
  • FRAISE CLINIC 統括医師
  • 日比谷セントラルクリニック 副院長
  • EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
  • アイエスクリニック六本木 統括医師
  • ルナビューティークリニック池袋 統括医師
  • 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院
  • 編集部

    Medi Face Journal編集部は、医療・テクノロジー・キャリア・ウェルビーイングといった領域を横断し、“いま本当に知るべきこと”を掘り下げて伝える専門メディアチームです。 医師・研究者・編集者・エンジニアなど、異なる背景を持つメンバーが集い、精神医療から産業ヘルスケア、医療人材のリアルまで、多角的な視点で「医療という営み」の本質に迫ります。

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