マイケル・ヤングが「メリトクラシー」という言葉を作ったのは1958年のことだ。彼はその著作の中で、能力主義が究極的にどれほど残酷なシステムになりうるかを、ディストピア小説の形式で警告した。ところがその後、メリトクラシーという概念はヤングの意図を完全に裏切る形で、「努力と能力が報われる公正な社会」の旗印として世界中に流通していった。笑。発明者の意図が180度反転して普及するというのは、歴史の中ではさほど珍しいことではないが、これほど見事な転倒はなかなかない。
私がこのテーマについて考えるとき、いつも引っかかるのは「放置」という言葉の含意だ。頑張る人ほど報われない仕組みが存在するとして、それがなぜ「放置」されるのか。無知によって放置されているのか、それとも意図的に放置されているのか。この二つの間には、倫理的に巨大な溝がある。そして私の観察では、その溝の底には、意外にも「合理性」が静かに沈んでいる。
組織の中で最も消耗しているのは、往々にして最も誠実に働いている人間だ。これは産業医として多くの職場に関わってきた私の実感であり、同時に私個人がずっと疑問に思い続けてきた問いでもある。なぜこの非対称性は是正されないのか。なぜそれを見ている人間が黙っているのか。そして――これが最も根本的な問いだが――「見ている人間」の中に、その構造から利益を得ている者が含まれているとしたら、何が変わるのか。
ホメオスタシスとしての「放置」――システムは現状を保存するように設計されている
生体には恒常性維持機能、つまりホメオスタシスがある。体温が上がれば発汗して下げ、血糖値が上がればインスリンが分泌されて下げる。このメカニズムは「正常範囲への復元」を目的としており、変化そのものに抵抗するように設計されている。組織も、社会も、まったく同じ構造を持っている。
頑張る人間が過剰に消耗している状態は、ある観点からすれば「システムの正常動作」だ。なぜなら、その人間が消耗しながらも機能し続けている限り、システムは「動いている」からだ。是正のシグナルが発生するのは、システムが止まるか、外部から強制介入が入ったときだけだ。つまり、消耗している人間が限界まで耐えている間は、システムにとってその状態は「問題」として認識されない。認識されないものは、当然、是正されない。
これは陰謀でも悪意でもない。ただのシステムの力学だ。ホメオスタシスは善悪を判断しない。現状を維持するだけだ。そして現状の中に「頑張る人間が消耗している」という状態が組み込まれているなら、システムはその状態を保存しようとする。
ちなみに、これと全く同じ論理が、遺伝的アルゴリズムにも適用できる。進化は「最も優れた個体」を保存するのではなく、「現在の環境において最も適応した個体」を保存する。環境が変わらなければ、適応した形質が何世代も受け継がれる。頑張る人間が消耗しやすい環境が続くなら、その環境に「適応」した人間、つまり頑張らない人間が生き延びやすくなる。進化論的には、これは完全に筋が通っている。笑えない話だが、筋は通っている。
フリーライダーの合理性と、誠実さの構造的ペナルティ
経済学者たちが「フリーライダー問題」を論じるとき、彼らはたいてい「搭乗者の不合理さ」を問題にしない。フリーライダーは完全に合理的に行動している。コストを払わずに便益を享受できるなら、払わない方が得だ。問題は個人の倫理ではなく、そのような行動が最適解になってしまう構造にある。
組織における誠実さも、同じ構造的問題を抱えている。誠実に、丁寧に、責任感を持って仕事をする人間は、必然的にコストを多く引き受ける。締め切りを守るために残業し、品質を落とさないために手戻りを厭わず、チームの穴を埋めるために自分の領域を超えて動く。これらはすべて、個人が引き受けた「外部不経済の内部化」だ。
一方で、その構造を巧みに利用する人間は、誠実な他者がコストを引き受けることを前提に、自分のコストを最小化できる。この非対称性が続く限り、誠実さは構造的に「割に合わない選択」になり続ける。ゲーム理論的には、これは囚人のジレンマの変種だ。協調が最も良い結果をもたらすが、裏切りが支配戦略になっている状況。
1984年のウィンストン・スミスを思い出す。彼は誠実に思考することで、その誠実さゆえに消耗し、最終的に体制によって破壊された。オーウェルが描いたのは全体主義の恐怖だが、その構造の本質は「誠実さが罰せられる仕組み」だった。スケールは違えど、論理の骨格は同じだ。
放置者の内部――「見ている人間」はなぜ黙っているのか
構造的な問題を認識しながら介入しない人間の心理は、単純な怠慢では説明できない。私はここに、もっと精緻な動機が働いていると思っている。
まず、介入にはコストがかかる。現状を変えようとすれば、変化によって損をする人間から抵抗を受ける。その抵抗を受け止める体力と権力を持っている人間は限られており、しかもその人間が「頑張る人ほど報われない構造」から直接利益を得ているとしたら、介入の動機はさらに薄れる。
次に、認知的不協和の問題がある。自分が構造的不公正の受益者であるという認識は、自己像と矛盾する。多くの人間は自分を「公正な人間」だと思いたい。その自己像を守るために、構造的不公正の存在そのものを認識しないように、あるいは「努力が足りないせい」「個人の問題」として再解釈するように、認知を歪める。これは悪意ではなく、自我防衛機制の自動的な作動だ。
これは余談だが、攻殻機動隊でバトーがたびたび問い直すように、「何が自分を動かしているのか」を正確に認識できている人間は少ない。私たちは自分の動機を事後的に合理化する生き物だという話は、ベンジャミン・リベットの実験以来、神経科学が繰り返し確認してきた。放置者が「放置を選んでいる」と意識しているかどうかすら、実は怪しい。
「努力は報われる」という物語の政治的機能
イデオロギーが最も効果的に機能するのは、それを信じている人間が搾取される側にいるときだ。マルクスの「宗教はアヘンだ」という言葉は粗雑に引用されすぎているが、その核心にあった洞察は鋭い。人々が現状に不満を持ちながらも、変革ではなく個人の努力に解決を求めるよう方向付けられているなら、その構造は極めて安定する。
「努力は報われる」という物語は、その意味で非常に都合がよい。報われなかったとき、問題の所在が「構造」ではなく「個人の努力不足」に帰着するからだ。これは帰属の問題であり、帰属先が変わることで、同じ現象から引き出される結論が180度変わる。構造に問題があると帰属されれば、制度改革の圧力になる。個人に問題があると帰属されれば、さらなる努力という個人の行動変容に終わる。
歴史を振り返れば、支配的なイデオロギーは常に前者を後者にすり替える傾向を持っていた。ピエール・ブルデューが「文化資本」の概念で示したように、一見「個人の能力」に見えるものが、実際には階層的な文化的再生産の産物であることは多い。にもかかわらず、能力主義の物語はその再生産を「個人の努力の結果」として読み替え、階層の固定を正当化する。
これは完全に蛇足ですが、Paul Verhoeven監督の「スターシップ・トゥルーパーズ」は表面上は痛快なアクション映画だが、実はファシズム的な社会構造を内側から描いた政治的サタイアとして機能している。観客がヒーローに感情移入しながら、気づかぬうちに全体主義のロジックを「正しい」と感じてしまう構造。これはプロパガンダのメカニズムを映画で実演してみせた傑作だと私は思っているのだが、そのことを声高に言うと話が広がりすぎるので、ここでは閉じる。
構造は変わるのか――あるいは変わることを望むべきなのか
この問いに私は安易に答えない。「変えるべきだ」という結論は正しいかもしれないが、それを書くことで何かが変わるとは思っていないし、変わったとしても新しい構造が新しい非対称性を生む可能性の方が、歴史的には高い。
ただ、一つだけ言えることがある。構造を「変えるかどうか」の議論の前に、構造を「見えるかどうか」の問題がある。見えていないものは変えられない。そして多くの場合、見えていないのは無知ではなく、見ないことの方が楽だからだ。
高分圧酸素環境下では、普通の酸素濃度では問題にならない物質が酸化し、毒性を持つようになる。ある種の真実も同じだ。特定の環境の中でしか、その毒性が顕在化しない。努力が報われない構造の「毒性」が見え始めるのは、その構造の外側に出たとき、あるいは構造の内側で完全に消耗し切ったときだ。消耗し切る前に見えた人間が何をするか。それは私にはわからない。ただ、見えた人間と見えていない人間の間には、言語化できない種類の溝があると感じている。
報われなかった人間が「頑張り方が悪かった」と結論するのと、「構造が歪んでいた」と結論するのとでは、その後の思考の経路がまったく異なる。どちらが正しいかは、ケースバイケースだ。どちらかに決めつけることが、むしろ思考を止める。
Gregory Batesonは、学習には段階があると言った。物事を覚えることが学習だとすれば、学習の仕方を学ぶことはメタ学習だ。そして最も深い学習は、自分が使っている前提そのものを問い直すことだ。「頑張れば報われる」という前提を疑わずに生きている間は、構造の歪みは個人の失敗として処理され続ける。その処理が繰り返されるとき、構造はまた一つ、放置されたままになる。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








