歴史を少し遡ると、「緩衝材」という役割が意図的に設計された構造を持つ社会は、だいたい長続きしない。ローマ帝国の末期、官僚制が肥大化していく過程で、中間管理層に相当する役人たちが皇帝と辺境の間に挟まれ、どちらからも要求を受け続けた。ギボンがその長大な衰亡史の中で繰り返し描いたのは、帝国の「外圧」による崩壊ではなく、内部の構造的疲弊だった。要するに、システムが自分自身の一部を燃料として使い始めたとき、そのシステムはすでに末期を迎えている。
私が今、組織という生態系を観察しながら考えていることがある。部下のメンタル不調が社会問題として認知され、ストレスチェックが義務化され、EAP(従業員支援プログラム)が整備され、「心理的安全性」という言葉が会議室に溢れるようになった。それ自体は悪いことではない。しかし、その整備が進めば進むほど、管理職という存在が奇妙な速度で壊れていくのを、私は目撃し続けている。
これは逆説的に見えて、実はまったく逆説ではない。構造を見ればすぐにわかる話だ。保護される層が増えるということは、その保護を実装する層の負荷が増えるということだ。部下の心理的安全性を担保する義務は、どこに着地するか。管理職の肩の上だ。制度の重力は常に、構造の中間点に集中する。
問題は管理職が「弱い」のではなく、構造がそのポジションを消耗させるように設計されているという点だ。そして、消耗する側が先に倒れ始めたとき、組織は何を食べているのかを問わなければならない。
中間管理職とは、熱力学的にどういう存在か
熱力学の第二法則を思い出してほしい。孤立系においてエントロピーは増大する。秩序は自然に維持されない。維持するためにはエネルギーを外から継続的に投入し続けなければならない。組織という系もまったく同じで、秩序を保つためには誰かがエネルギーを消費して「整える」役割を担い続けなければならない。
管理職は、その「整える」機能を一手に引き受けるポジションだ。上位層の意思決定を下に翻訳し、下位層の感情・不満・要求を上に翻訳し、そのどちらからも「もっとうまくやれ」と言われ続ける。情報の変換コスト、感情の調整コスト、判断の責任コスト、これらをすべて一人の人間が局所的に引き受ける構造になっている。
物理的なたとえで言えば、管理職は「高温側と低温側の間にある熱交換器」だ。温度差が大きければ大きいほど、熱交換器には負荷がかかる。経営層と現場の温度差が拡大している組織——それは今日の大半の日本企業に当てはまると思うが——では、管理職という熱交換器は常にオーバーロードに近い状態で稼働している。
そして熱交換器は、熱を「感じない」。感じているのは人間だから当然感じるが、組織の構造としては「感じることを期待されていない」という意味で、感じない部品として設計されている。管理職が「自分がしんどい」と言えない文化は、この構造的期待の副産物だ。
なぜ部下より先に壊れるのか——ホメオスタシスの非対称性
ここに生理学的な視点を入れると、さらに面白い。ホメオスタシス、つまり恒常性維持機能は、生命にとって根本的な機能だが、この機能には維持コストがある。体温を一定に保つためには代謝エネルギーが要るし、血糖値を一定に保つためにはインスリンが働き続けなければならない。
人間の精神にも同様のホメオスタシスが存在する。感情の揺れを調整し、認知の歪みを補正し、対人関係の摩擦を吸収し、自己効力感を維持し続ける機能。これが恒常的に高負荷で稼働し続けると、やがてレジリエンスのバッファが枯渇する。問題は、管理職という立場の人間が、このバッファを二重に消費しているという点だ。
自分自身のホメオスタシスを維持しながら、同時に他者(部下)のホメオスタシスを補助するという二重の負荷。部下が「しんどい」と言ったとき、管理職は自分の感情調整コストを支払いながら、部下の感情調整を補助するというマルチタスクを強いられる。そこに上司からの圧力、業績目標、コンプライアンス対応が加わる。
これは余談ですが、かつてベトナム戦争の従軍医師たちを対象にした研究で、「他者のトラウマを処理し続ける人間は、直接的な戦闘体験者より高い確率で二次的PTSDを発症する」という結果が出た。共感疲労(Compassion Fatigue)と呼ばれる概念だが、これは医療者だけの問題ではない。感情を「受け止める」ことを職務上求められるすべての人間に適用できる話だ。今日の管理職は、ある意味で慢性的な共感疲労の培養槽に置かれている。
「配慮の制度化」が生んだ皮肉な構造
2000年代以降、日本の職場におけるメンタルヘルス対策は急速に制度化された。ストレスチェックの義務化(2015年)、ハラスメント防止措置の義務化(2020年)、そして心理的安全性という概念の浸透。これらの制度は、守るべき対象として「部下・一般従業員」を想定して設計されている。
しかし、この制度の実装義務を担うのは管理職だ。部下のストレス反応に気づき、適切に対応し、ハラスメントにならないよう言葉を選び、心理的安全性を確保した場を作り続ける。それは技術であり、スキルであり、相当なエネルギーコストを伴う実践だ。ところが、管理職自身がそのケアを受ける仕組みは、ほとんど整備されていない。
攻殻機動隊のある場面で草薙素子が言う(正確には近い趣旨だが笑)「守るべき対象が増えるほど、守る側の自由は減る」。これは組織論としても機能する命題だ。保護の対象が増え、保護の義務が細分化されるほど、保護する立場の人間の裁量と余白は削られていく。
結果として何が起きるか。管理職は「部下を守る義務がある人間」として位置づけられながら、自分自身が守られる場を持たない。これは制度の盲点というより、制度設計の思想的な欠落だと私は思う。保護の非対称性が構造として組み込まれている。
孤独という変数——上にも下にも弱音を言えない存在
1984年のウィンストン・スミスが置かれた状況は、監視と管理の極限だったが、彼を最も苦しめたのは「信頼できる他者の不在」だった。これは全体主義的ディストピアの話であって現代の職場の話ではない、と言い切れるだろうか。
管理職が「しんどい」と言えない理由を分解すると、驚くほど単純な構造が出てくる。上司には「弱い管理職」だと思われたくない。部下には「頼りない上司」だと思われたくない。人事には「問題のある管理職」として記録されたくない。家族には心配をかけたくない。同僚には愚痴を聞かせる立場ではないと感じている。
結果として、管理職という生き物は構造的に孤立する。これは性格の問題でも、コミュニケーション能力の問題でもない。役割の定義そのものが、感情の開示を禁忌に近い形で扱うよう設計されているのだ。
ちなみに、サルの群れにおいてもアルファオスは孤独だという研究がある。群れの統率を担う個体は、他の個体が享受するような社会的グルーミング(毛繕いによる相互ケア)の恩恵を十分に受けられない。統率者は「サービスを提供する側」であり「サービスを受ける側」ではない、という役割分業が自然発生的に形成される。人間の組織が霊長類の群れの社会構造を完全に超えたと言い切るには、まだ証拠が足りない気がする(笑)。
消耗の速度が逆転した先に、組織は何を失うのか
今日、私が観察しているのは、部下のメンタル不調の「発生速度」より、管理職の「崩壊速度」が上回り始めているケースの増加だ。これを「管理職が弱くなった」と読むのは、あまりに粗雑な解釈だ。
遺伝的アルゴリズムの言葉を借りれば、環境圧が変化したとき、適応できない個体が増えることは当然だが、問題はその「環境圧の変化」が何によって引き起こされているかだ。部下の保護が制度化され、上位層の戦略が抽象化し、成果への圧力が強化され、コンプライアンスの定義が複雑化し、多様性への配慮が要求され、DX対応が追加される。管理職に要求される能力のプロファイルは、過去10年で完全に変容した。しかし、管理職を「育てる」プロセスは、ほとんど変わっていない。
組織が管理職の消耗を放置したとき何を失うか。答えは単純だ。中間層の記憶と文脈が失われる。組織の暗黙知、人間関係の歴史、業務のなぜを知っている人間が消えていく。残るのは制度と、制度を動かすことを学んだばかりの人間たちだ。制度は記憶を持たない。
根拠のある絶望の上に
私はここで解決策を書くつもりはない。そういう記事は他にいくらでもある。「管理職のセルフケアが重要です」「1on1を充実させましょう」「心理的安全性は部下だけでなく管理職にも」——正しいことが書いてある。正しいことが書いてあるが、構造を変えることなしにそれらは対症療法だ。
私が思うのは、今起きていることは「管理職の問題」ではなく「組織という構造が自分自身の一部を燃料として消費し始めている」という問題だということだ。ローマが末期に辺境の属州民を徴税の対象から兵士の供給源に切り替えたとき、帝国はすでに収縮に向かっていた。組織がミドルマネジャーを「資源」として使い切り始めたとき、似たような力学が働いていると私は思っている。
これは悲観論ではない。少なくとも私にとっては。構造がわかれば、どこに手を入れるべきかは見える。見えているのに手が入らない理由が「経営の意思」か「無知」かによって、話はまったく違ってくる。前者なら価値観の問題だし、後者なら認識の問題だ。私の関心は後者の方にある。認識は変えられるから。
管理職が壊れる速度が部下を超えた時代に、私たちはどういう組織の形を選ぶのか。それはまだ、問いのまま置いておいていい。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








