META: 承認欲求を「悪」と断罪するのは簡単だ。だが問題の核心はそこにない。燃料として使われ続けた欲望が、いつの間にか燃焼炉そのものを侵食し始める、その構造的必然について考えたい。
ローマ帝政期の哲学者エピクテトスは、奴隷として生まれながら、「自由とは外部への無関心から生まれる」と喝破した。彼が外部と呼んだものの中には、他者の評価も当然含まれていた。それから二千年ほど経って、私たちはSNSというインフラの上に自分の存在証明を構築するという、彼が想像もしなかったような形で「外部への完全依存」を制度化した。エピクテトスが聞いたら笑うと思うが、あるいは笑わないかもしれない。彼はストア派であり、笑いより沈黙を好んだ。
承認欲求そのものは、べつに病理でも欠陥でもない。マズローの欲求階層説を持ち出すまでもなく、社会的動物としてのヒトが承認を必要とすることには進化的な根拠がある。集団から弾かれた個体は、サバンナで文字通り死んでいた。承認への渇望は恐怖の変換形式だ、という言い方もできる。これは批判ではなく、観察だ。
だが私が面白いと思うのは、「承認を求める」という行為そのものより、「承認を燃料として走り続けるという選択が、走者に対して何をするか」という問いのほうだ。燃料は消費されるものだ。燃料が燃焼炉の外壁を侵食し始めたとき、私たちはそれをまだ「走っている」と呼んでいいのだろうか。
これはある種の自己参照問題であり、ゲーデルの不完全性定理が漂わせる匂いと少し似ている。システムが自分自身を記述しようとしたとき、そのシステムは自分の限界に触れる。承認欲求によって動くシステムが、承認の総量を最大化しようとし続けたとき、そのシステムはいつか自分自身の記述能力を失う。つまり、自分が何を望んでいるのかを知る能力を失う。
燃料と燃焼炉の間にある、見えない侵食
熱力学的に言えば、エネルギーは保存される。しかし変換効率は常に100%ではない。何かを駆動するために燃やされたものの一部は、必ず熱として逃げていく。承認欲求を燃料として使い続ける人間においても、これに似た損失が起きていると私は思っている。
具体的に何が失われるか。最初に消えるのは「内発的な選好」だ。何かをやりたいから、面白いから、という理由で行動する回路が、少しずつ承認という外部変数に上書きされていく。これは急激な変化ではなく、ホメオスタシスのような緩やかな再調整だ。体温が少しずつ変化するように、本人はほとんど気づかない。
次に失われるのは「失敗の許容域」だ。承認が燃料である以上、失敗は文字通り燃料切れを意味する。失敗を恐れることは合理的に見えるが、実際には失敗が学習の主要な情報源であることを考えると、これは認識論的に致命的だ。遺伝的アルゴリズムで言えば、突然変異を許さない選択圧をかけ続けているようなものだ。局所最適解に収束してしまい、大域的な最適からはどんどん遠ざかる。
そして最終的に失われるのが「観察者としての自己」だ。これが一番厄介だ。承認欲求に完全に支配されたシステムにおいては、「他者に見られている私」と「私を観察している私」の間の距離がゼロになる。これはある意味で、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の崩壊だ。思考する主体としての私が、観察される客体としての私に完全に吸収される。残るのは反応するだけの装置だ。
歴史上の人物を実験台にする(倫理審査は通っていない)
歴史を見渡すと、承認欲求の燃焼を極限まで押し進めた人間たちの末路には、ある種の類型がある。
ナポレオン・ボナパルトは軍事的天才であったと同時に、驚くほど承認への渇望が強い人間だった。彼の書簡を読むと、戦場における勝利への執着の裏側に、パリの世論への強迫的な意識が透けて見える。彼はコルシカ出身のよそ者として、一生フランス社会から承認されることへの渇きを抱えていたと指摘する歴史家は少なくない。ワーテルローへ向かった彼が失っていたのは、軍事的判断力だけではなかった。「負けることの許容」という認知的柔軟性をすでに失っていた。承認の燃焼が、判断する主体を侵食していた。
これは余談ですが、ナポレオンの睡眠時間は極端に短く、また短時間睡眠を非常に得意としていたとされる。睡眠不足が前頭前野の機能を抑制し、リスク評価を歪めることは現代の神経科学が示している。つまり彼の晩年の判断の歪みには、承認欲求による認知侵食と睡眠剥奪による神経生理学的劣化という、少なくとも二重の機序が重なっていた可能性がある。これは本論に関係ないような、あるいは密接に関係するような、微妙な位置にある話だ。
もう少し近代に引き寄せると、1984年のウィンストン・スミスを思い出す。オーウェルが描いたのは、外部からの承認(正確には服従)を強制されることで、内的観察者が完全に消去されていくプロセスだった。ビッグ・ブラザーによる監視は単なる物理的支配ではなく、「自分で自分を監視するように仕向けること」による観察者自己の解体だ。自発的に承認を追い求める現代人と、強制的に監視される1984の住人との間の距離は、私たちが思うよりずっと短いかもしれない。
「本物の欲望」という概念は存在するか
ここで一度、問いを別の角度から立ててみたい。承認欲求に汚染されていない「純粋な欲望」や「本物の動機」というものは、そもそも存在するのだろうか。
ラカン的に言えば、欲望は常に他者の欲望を経由する。私たちは生まれた瞬間から他者の視線の中に置かれ、その視線を内面化することで自己を構成する。とすれば、承認欲求から完全に自由な欲望など最初から存在せず、私たちが「純粋な動機」と呼んでいるものも、承認欲求の高度に洗練された変換形式に過ぎないのかもしれない。
ちなみにこれは完全に蛇足ですが、私がこのテーマを考えるとき、いつも攻殻機動隊の草薙素子を思い出す。彼女は電脳化と義体化によって、「どこまでが自分か」という問いと継続的に格闘している。自分の記憶も、自分の反応も、外部との接続によって構築されているとしたら、「本来の自己」などという概念はそもそも成立するのか、という問いだ。承認欲求に支配された人間が直面する問題の哲学的な極北は、案外ここにあるかもしれない。笑
ただ、ラカンの議論を受け入れつつも、私には一つの区別が重要に思える。「他者を経由した欲望」と「他者による評価そのものが唯一の目的になった状態」は、質的に異なる。前者は人間存在の構造的条件であり、後者は特定の強化学習の結果だ。問題は承認欲求を持つことではなく、承認欲求以外のフィードバック回路が完全に失われることだ、と私は整理している。
失われた「固有名詞」という問題
臨床的な文脈で言うと(「精神科医として」という言い方はしないと決めているが、これは文脈的注釈なので許してほしい)、承認の燃焼によって最終的に消えるものは、意外にも「固有名詞」だ。
これは比喩だ。固有名詞とは「他のものと置き換えられない特定の何か」を指す言語的カテゴリーだ。承認欲求の燃焼が進んだ人間において、行動の選択基準が「承認されるかどうか」という一変数に収束していくと、その人間は固有名詞的な存在ではなくなっていく。何のために生きているかという問いへの答えが、「評価されるため」という普通名詞に置き換えられてしまう。
アイデンティティの解体というと大げさに聞こえるかもしれないが、実際に起きていることはそれに近い。その人間がその人間である理由、すなわち他のものに還元されない「固有性」が、承認という汎用変数の前に少しずつ溶けていく。残るのは、承認さえあれば何者にでもなれる、あるいは何者にもなれない、高度に適応的だが固有性のない装置だ。
Animatrixの「Second Renaissance」に登場する機械たちは、最初は人間に認められることを求めた。そして認められなかったとき、別の戦略を取った。承認への欲求が「別の戦略」に転換されたとき、それはもはや欲望ではなくアルゴリズムだった。人間が承認欲求の末に似たようなことをするとしたら、それは少しも笑えない話だ。
根拠のない希望は語らない
ここで希望を語ることは簡単だ。「承認ではなく内発的動機を持ちなさい」と言えばいい。だが私はそれを書かない。理由は二つある。一つは、前述したように内発的動機が承認から完全に独立している保証はないからだ。もう一つは、そういう文章を書くことで、私自身が「良いことを言う人間として承認される」という承認欲求の燃焼に加担することになるからだ(笑)。
では何が言えるか。
一つだけ言えることがあるとすれば、「燃焼に気づくこと」と「燃焼を止めること」の間には、巨大な非線形の距離がある、ということだ。気づくだけでは何も変わらない。しかし気づかなければ、変化の可能性そのものが存在しない。これは認識論的に言えば、必要条件だが十分条件ではないというだけのことだ。
エピクテトスに戻ると、彼は「自分の支配下にあるものと、そうでないものを区別せよ」と言った。他者の評価は後者に属する。それは彼の時代も、SNSのある今も変わらない。変わったのは、後者を前者だと錯覚させるインターフェースが格段に洗練されたことだ。
承認によって失われるものが何かを問うことは、何が失われていないかを問うことでもある。その残余に、何かがあるかもしれない。あるいは何もないかもしれない。ただ、その問いを立てられる間は、観察者としての自己がまだ息をしていることの証左にはなる。それが何を意味するかは、私にもわからない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








