1944年、ナチス・ドイツの占領下にあったフランスで、SOE(英国特殊作戦執行部)が訓練したエージェントたちは「沈黙の技術」を叩き込まれた。敵に情報を渡さないための沈黙ではなく、仲間の前でさえ「安全に見える沈黙」を演じることで、組織全体の欺瞞耐性を上げるための訓練だ。ある歴史家はこれを「構造的な嘘の民主化」と呼んだ。全員が同じ虚構を共有することで、誰も嘘をついている罪悪感を持たない状態。これを読んだとき、私は奇妙な既視感を覚えた。
現代の多くの組織でも、似たような「沈黙の民主化」が進行している。ただしその訓練は、圧力によってではなく、善意によって行われる点が根本的に異なる。むしろそこが本質的に厄介なところで、善意で作られたシステムほど、その歪みを指摘することが道徳的に困難になる。
心理的安全性という概念そのものに問題があるとは思っていない。エイミー・エドモンドソンがGoogleのプロジェクト・アリストテレスで可視化したあの知見は、本質的には正しい。チームが機能するためには、リスクを取って発言できる土壌が必要だ。ただ、概念が正しいことと、その実装が正しいことは、まったく別の話である。「正しい概念の誤用」こそが最も根絶しにくい知的ウイルスだと私は考えている。なぜなら、誰もウイルスに感染していると思っていないから。
私がここ数年で観察してきたのは、心理的安全性の「ぬるま湯化」という現象だ。温度で言うなら、37度ちょうど。体温と同じ温度の水に浸かると、人間は水に浸かっていることを知覚できなくなる。問題を言っても「大丈夫」な環境が、問題を感じなくなる環境にいつの間にかすり替わっている。これは感覚の話ではなく、神経システムレベルの適応だ。恒常性維持機構、いわゆるホメオスタシスは、苦痛だけでなく快適さに対しても働く。ぬるま湯は認知的ホメオスタシスの完璧な比喩である。
「安全に発言できる」と「発言に意味がある」は、まったく別の命題である
エドモンドソンの原典に戻ると、心理的安全性が機能するための前提条件として、彼女は「高い業績基準との共存」を明示している。つまり、心理的安全性というのは「甘さ」と「厳しさ」の同時成立を前提とした概念だ。ところが現場でこれが運用されるとき、往々にして「甘さ」だけが残る。厳しさは「心理的安全性を損なう」という理由で削ぎ落とされていく。
これはメカニズムとして非常に理解できる。厳しい評価は不快であり、不快を避ける方向に人間のシステムは自動で動く。遺伝的アルゴリズムで言えば、「不快の最小化」という適応圧が、「厳しさ」の遺伝子を世代を経るごとに淘汰していく。数サイクルもすれば、元の設計に厳しさなどというパラメータが存在したことすら、組織の集合記憶から消える。
残るのは何か。「言っても大丈夫な場所」だ。では実際に何が言われるのか。軽い不満、人間関係の摩擦、些細な業務上の違和感。これらが丁寧に拾い上げられ、適切に処理されていく。一見、機能しているように見える。ところが、組織の根幹を揺るがすような問題──財務の歪み、意思決定の構造的欠陥、トップの認知バイアス、文化的腐敗──これらは静かに、確実に「言えない問題」のカテゴリーに収納されていく。言えないのではなく、「言うことの意味を誰も信じていない」という形で。
ちなみに、これは完全に余談だが、1984のオーウェルが描いたダブルシンクの恐ろしさは、嘘をつくことではなく、矛盾を同時に真として保持できる心理的能力にあった。現代の「ぬるま湯組織」で起きていることも、一種のダブルシンクだ。「うちの組織は安全に発言できる」という真と、「この問題は誰も本当には口にしない」という真を、同時に保持したまま、誰も矛盾を感じていない。オーウェルは全体主義国家を描いたつもりだったが、あれは結局、人間の認知構造の話だったのだと今になって思う。
隠蔽は意図から生まれない。構造から生まれる
組織の問題隠蔽を語るとき、多くの場合「悪意ある隠蔽者」が想定される。意図的に情報を握りつぶす管理職、都合の悪い数字を見ないようにするCFO、内部告発者を潰す経営陣。確かにそういうケースも存在する。しかしそれはむしろわかりやすい類の問題で、病理として同定しやすい。
より根深いのは、誰も隠蔽しようとしていないのに、問題が構造的に隠されるという現象だ。これを私は「善意の隠蔽」と呼んでいる。心理的安全性が高いと信じられている組織で特に多く観察される。
メカニズムはこうだ。問題Xが存在する。誰かがXに気づく。しかしXを言語化するためには、まず「これは問題だ」という認知的判断が必要で、その判断には比較基準が必要だ。ぬるま湯に浸かりすぎた組織では、その比較基準自体が溶解している。「うちはこういうものだ」というナラティブが、基準値そのものを書き換えてしまう。気づいた人間は、自分の感覚が間違っているのだと解釈する。周囲は安心している。自分だけが不安なのなら、問題があるのは自分の側だ、と。
心理学ではこれを「多元的無知」と呼ぶが、私はこの命名が少し物足りないと感じている。「無知」というのは知識の欠如であり、受動的な状態の印象を与えすぎる。実際に起きているのは、知覚の能動的な抑圧だ。快適さを維持するために、不快な信号を脳が意識に上げるコストを高くしていく。高分圧酸素下での窒素酔いに少し似ている。水深が深くなるほど、自分が異常な状態にあることを正確に知覚する能力が下がる。そして知覚が下がったこと自体を、知覚できない。
「フィードバックの文化」という免罪符が果たして機能しているか
心理的安全性の議論とセットで、必ずといっていいほど「フィードバック文化の醸成」という処方箋が登場する。1on1の実施率を上げる、ポジティブフィードバックとネガティブフィードバックの比率を管理する、360度評価を導入する。手順として間違っていないし、やらないよりはるかにましだ。
ただ、私が長年組織を観察してきて気になるのは、これらの施策がひとつの前提の上に成り立っているという点だ。その前提とは、「問題を認識している人間が、それを言語化するモチベーションと能力を持っている」ということ。フィードバック文化というインフラは、その上を走る情報がまともであることを前提にして設計されている。しかし前項で述べたように、ぬるま湯化した組織では問題の認知そのものが劣化している。道路を整備しても、道路を走る車が壊れていれば、荷物は届かない。
これは余談ですが、Animatrixの「セカンド・ルネッサンス」でマトリックス世界が完成するまでに、人類は機械との共存を何度か試みた。そのたびに「今度こそうまくいくはずだ」という善意と設計が投入されたが、問題の根を診ることなくインターフェイスを整備し続けた結果、最終的に自らを囲い込む構造を完成させてしまった。あれを初めて見たとき、私は「これはマネジメント映像だ」と思った(笑)。本質的な問いに触れずに実装だけを磨き続けるとき、人はだいたいあのプロセスをたどる。
問題は、フィードバック文化の質を担保するためには、まず「問題を問題として感知できる組織の知覚神経」が機能していなければならない、ということだ。ぬるま湯の温度管理を丁寧にやっても、感覚が麻痺している。むしろ丁寧に管理されたぬるま湯は、より完璧に感覚を奪う。
群れの中に入った観察者は、いつの間にか群れの一部になる
産業医として組織に入るとき、私が最も気にするのは「私自身がいつ群れの一部になるか」という問いだ。これはナルシスティックな問いに聞こえるかもしれないが、むしろ逆で、観察者が観察対象に染まるプロセスを自己モニタリングしないことには、真っ当な観察など最初からできないという認識に基づいている。
人類学者のクリフォード・ギアーツは「厚い記述」という概念を提唱し、文化の表層ではなくその意味構造を記述することの重要性を説いた。だが彼自身も認めたように、観察者が文化に深く潜れば潜るほど、客観性という幻想は薄れていく。組織観察も同じだ。関係性が深まれば深まるほど、観察者は「問題を問題として見る眼」を徐々に失っていく。それは親切さの代償であり、信頼の副作用だ。
組織が心理的安全性を高めていく過程で、内部の人間に何が起きているかを構造として考えると、これは一種の適応的鈍化と呼べる。感覚器官は変化を検知するために設計されている。変化がなければ、信号は減衰する。絶対温度を感知するのではなく、温度の変化を感知する。組織が「安全で快適」に安定すると、変化の信号が入らなくなり、感覚器が沈黙する。沈黙した感覚器を持つ組織は、外部からの衝撃にきわめて脆弱だ。
攻殻機動隊の草薙素子が最後に問うたのは、「私はどこから来て、どこへ行くのか」ではなく「私はどこまでが私か」という問いだった。組織においても同じ問いが成立する。どこまでが問題で、どこまでが文化か。その境界が溶解したとき、組織は変化を変化として認識する能力を失う。心理的安全性のぬるま湯は、その境界を静かに、しかし確実に溶かしていく。
麻酔が切れた後、手術室に誰が残るか
結局のところ、心理的安全性そのものが問題なのではなく、それが何のために設計されているかという目的論の欠落が問題だ。「安全に発言できる場」というのは目的ではない。「安全に発言できる場があることで、組織がより鋭く、より正直に、より速く機能する」というところまでが一体のデザインであるはずなのに、前半だけが切り取られて「良いもの」として定着してしまった。
これはある意味で必然でもある。「安全な場」という価値は可視化しやすく、計測しやすく、報告しやすい。エンゲージメントサーベイのスコアが上がれば、施策の成果として提示できる。一方、「それによって組織の問題感知能力と解決能力が上がったか」という問いは、計測が難しく、因果の紐付けも難しく、四半期の報告資料に収まりにくい。計測可能なものだけが最適化される。これはグッドハートの法則の、また別の変奏曲だ(笑)。
ハイデガーが「本来性」と呼んだものを、私は組織においても成立しうる概念だと思っている。組織が本来的であるとは、構造の前で誤魔化しなく立つことだ。「うちは心理的安全性が高い」という自己評価の根拠が、本当に「問題を問題として直視できる組織能力の高さ」から来ているのか、それとも「問題を感知する能力が落ちているから誰も不安そうにしていない」という状態から来ているのか。この二つは、表面的な指標では区別がつかない。
麻酔の効果は快適だ。痛みを消す。不安を消す。恐怖を消す。しかし麻酔の目的は、快適さを永続させることではない。麻酔がなければできない手術のために、一時的に感覚を奪うことだ。手術が終われば、麻酔は切れなければならない。痛みが戻ってくることが、回復の証拠だ。ぬるま湯に変質した心理的安全性は、覚醒のタイミングを設計に入れていない麻酔に似ている。感覚が戻らないまま、誰もそれを異常だと思わない。思えない。
問題隠蔽能力が高い組織は、たいてい「うちは風通しがいい」と言う。これは皮肉ではなく、観察の結果だ。そしてその言葉を発している人間が嘘をついているとも思わない。彼らにとって、それは真実だ。感じていないものは、存在していないのと同じだ。知覚されない問題は、問題ではない。少なくともその組織の内部では。外部から見れば、それは時限爆弾だが。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








