META: 疲弊した社員を「やる気がない」と診断する組織は、筋繊維が修復される前に再びトレーニングさせる無知なコーチと何が違うのか。回復を軽視する文化の構造的欠陥を、生物学・哲学・歴史の交差点から解剖する。
1930年代、ソビエト連邦のスタハノフ運動というものがあった。炭鉱夫アレクセイ・スタハノフが一晩で規定量の14倍の石炭を掘ったとされ、それを国家プロパガンダの素材として「労働英雄」の神話が作られた。実際には複数の補助作業員がいたとか、数字は誇張だったとか、諸説あるが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、あの運動が何を「見えなくさせたか」だ。スタハノフの偉業を称えることで、組織は「回復」という概念をシステムの外に追い出した。英雄は疲れない。疲れる者は英雄ではない。この単純な論理が、労働者の生物学的現実を「意志の問題」にすり替えた。
90年近く後の日本企業で、まったく同じ構造が生きている。呼び方が変わっただけだ。「根性」が「エンゲージメント」に、「気合い」が「主体性」に、「怠け」が「メンタル不調」に。言葉は洗練されたが、根底にある認識論は変わっていない。パフォーマンスが落ちた社員を見たとき、組織が最初に探すのは「何が足りないか」だ。スキルか、モチベーションか、コミットメントか。「何が過剰になっているか」を問う組織は、驚くほど少ない。
私がここで展開したいのは、精神医学的な「燃え尽き症候群の解説」ではない。そういう記事はネットに溢れているし、私が書く必要はない。私が面白いと思うのは、なぜ人間という生物は、回復の必要性を認知しながらも、組織という場では一貫してそれを軽視するのか、という問いだ。これは認知バイアスの話でも、経営の話でも、心理学の話でもある。だが根っこを辿れば、これは哲学の問題だと私は思っている。具体的には「存在証明」の問題だ。
筋繊維は「休んでいるとき」に強くなる──超回復という不都合な真実
スポーツ生理学に「超回復」という概念がある。筋トレをすると筋繊維は微細な損傷を受け、その損傷が修復される過程で以前より太い繊維が形成される。強さは「鍛えているとき」ではなく「休んでいるとき」に生成される。これは比喩でも精神論でもなく、分子生物学レベルの事実だ。mTORシグナル経路が活性化され、タンパク質合成が促進され、衛星細胞が分化する。このプロセスには時間がかかり、適切な栄養と睡眠が必要で、その間に再負荷をかけると回復が妨げられるどころか、オーバートレーニング症候群を引き起こす。
認知機能も、まったく同じ原理で動いている。前頭前野は疲労する。意思決定の質は連続稼働時間に反比例して低下する。これはロールプレイの問題でも気持ちの問題でもなく、グルコース代謝と神経伝達物質の枯渇という電気化学的現実だ。1998年にロイ・バウマイスターが提唱した「自我消耗」の概念は後に再現実験で批判を受けたが、認知リソースに限りがあること自体は現在も否定されていない。問題は規模感の議論であって、原理の否定ではない。
ここで組織に話を戻すと、奇妙なことが起きている。同じ経営者が、アスリートのトレーニング科学には「なるほど、休息も練習のうちですね」と素直に頷き、社員の残業時間を見て「もっと頑張れるはずだ」と言う。この矛盾は無知から来るのではない。知っていてなお、適用を拒否しているのだ。なぜか。
可視性の呪縛──「働いている姿」が意味を持ち、「回復している姿」が意味を持たない理由
哲学的に言えば、これはハンナ・アーレントが「活動的生活」と「観照的生活」の対比で論じた問題の変形だ。アーレントは「労働」「仕事」「活動」を区別したが、ここで重要なのは、近代社会が「見えること」に価値の根拠を置いたという指摘だ。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったとき、それは内面の確認だった。だが組織は「我働く、ゆえに我あり」という別の存在論を採用している。休息は「不在」であり、不在は「存在しないこと」と等号で結ばれる。
これが厄介なのは、社員本人もこの論理を内面化していることだ。休むことへの罪悪感は、外部から押し付けられた規範であると同時に、深く自己化された価値観でもある。「休んでいる自分は価値がない」という感覚は、強迫神経症的な症状に近い構造を持つが、症状とは呼ばれない。なぜなら、それが「正常な働き者の姿」と一致しているからだ。これは1984年のビッグ・ブラザーが好みそうな二重思考の構造だ。監視がなくても人は自分を監視する。それが最も効率的な管理だから。
ちなみに、これは完全に蛇足ですが、Animatrixの「セカンド・ルネサンス」で描かれる機械への移行の一因として「人間が人間を消耗品として扱ったこと」が示唆されている。あの短編はSFというより、産業革命以降の労働史の圧縮アニメーションとして読んだほうが怖い(笑)。まあ、それはおいておこう。
ホメオスタシスの裏切り──「疲れていない感覚」が最も危険な状態である
生体には恒常性維持機能、いわゆるホメオスタシスが備わっている。体温を一定に保ち、血糖値を調節し、心拍数を状況に応じて変動させる。この仕組みは通常は有益だが、慢性疲労という文脈では致命的な問題を引き起こす。人間の身体と脳は、慢性的な負荷に「適応」する。その適応の形は回復ではなく、感覚の鈍化だ。
つまり、長期間疲弊し続けた人間は「疲れを感じにくくなる」。これは強さではない。センサーの故障だ。自律神経系が交感神経優位の状態を「通常」と誤認し、副交感神経への切り替えシグナルを出さなくなる。主観的に「まだいける」と感じている社員が、客観指標では限界を超えているという状況が生まれる。この乖離は、本人に自覚できない。だから「大丈夫です」と言い、上司も「大丈夫そうだ」と判断し、結果として突然のパフォーマンス崩壊に双方が驚く。
ベトナム戦争の後、PTSD研究が本格化した時代に浮かび上がったのも似たような現象だった。戦場で機能し続けた兵士が、安全な帰還後に初めて崩れた。危機が去ってから症状が顕在化する。この遅延発症のメカニズムは、職場における慢性疲労にも適用できる。プロジェクトが終わって有給を取った翌週から急に動けなくなる社員を、「根性がない」と評価する組織は、このメカニズムを知らない。あるいは知っていて無視している。どちらもたいして変わらないが。
努力不足という誤診──組織における診断エラーのコスト
医療の世界で「誤診」は患者を死に至らしめることがある。組織における誤診もコストを持つが、そのコストは分散されて見えにくい。「あの人は最近やる気がない」という評価が下された社員に何が起きるか。評価が下がる。重要な仕事が回ってこなくなる。本人の自己評価も低下する。結果として実際のパフォーマンスも低下する。これは予言の自己成就であり、正確には誤診が症状を作り出している。
原因の帰属という心理学的概念がある。ハイダーとケリーの帰属理論で言えば、観察者は他者の行動を「内的原因(性格・能力・意志)」に帰属しやすく、「外的原因(環境・状況・生理的状態)」を過小評価する。これを「基本的帰属錯誤」と呼ぶ。組織が「努力不足」という内的帰属を好む理由は、それが問題の構造的な見直しを不要にするからだ。社員を変えればいい、もしくは排除すればいい。環境を変える必要がない。
これは経営コストの外部化だ。本来なら組織が負担すべき疲弊のコストを、社員個人の「やる気」の問題にすり替えることで、組織は構造改革から逃れる。合理的に見えて、長期的には組織の劣化を招く。遺伝的アルゴリズムの比喩を使えば、適応できない個体を排除し続けた結果、実は最も過酷な環境でしか生き残れない表現型だけが残る。多様性が失われ、環境変化への対応力が下がる。「強い組織」を目指した選択が「脆い組織」を生む。
回復を「設計」するという発想の転換──あるいはそれが本当に可能かどうかという問い
ここで私は「ではこうしましょう」とは言わない。そういう締め方は性に合わないし、正直あまり信用もしていない(笑)。
ただ思考実験として面白いのは、「回復を管理する」という発想が、組織の論理とどこまで相性が悪いか、という点だ。管理というのは本来、測定可能なものを対象にする。しかし回復の深度は個人差が極めて大きく、主観的疲弊感は前述のように信頼性が低く、客観的バイオマーカーは職場での日常的使用には向いていない。つまり「回復を管理しよう」という試みは、最初から測定の困難という壁にぶつかる。
これは完全に余談ですが、グレッグ・イーガンの「順列都市」に出てくる自律コピーたちは、自分の主観時間を自分でコントロールできる。疲弊したらスローモードに切り替え、必要なときだけ高速で動く。あの設定は技術的空想として読めるが、「主観時間の自律的管理」という概念そのものは、現代の組織論にとって挑発的な問いを内包している。人間が自分のペースで回復できる権限を持つとき、組織の時間軸との衝突は不可避だ。その衝突を誰が、どのコストで、誰のために調停するのか。
スタハノフはその後、どうなったか。英雄として称えられ続けたが、晩年はアルコール依存と精神的不安定の中で過ごし、1977年に寂しく死んだ。国家が作った「疲れ知らずの英雄」の末路だ。私はこの事実を、警句として提示するつもりはない。ただ、事実として記録しておく価値はある。神話は、それを作った側には有益だが、神話の中に住まわされた側には過酷だという、それだけのことだ。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








