沈黙する職場という罠――「誰も倒れない」ことが、すでに危機の兆候である

生態学に「生態系の健全性指標」という概念がある。単純に言えば、ある環境が健全かどうかを測る際、そこに存在する種の「多様性」と「撹乱への応答能力」を参照するというものだ。面白いのは、撹乱が全くない環境が必ずしも健全とは見なされない点である。完全に安定しているように見える生態系は、しばしば「種の多様性が失われ、外来種の侵入に極端に脆弱になった状態」と一致する。穏やかな湖面の下で、すでに酸素が枯渇していることがある。

この話を職場に持ち込むのは、比喩として少々乱暴かもしれない。しかし私はここ数年、産業医として様々な組織を見てきた経験から、どうしてもこのアナロジーが頭を離れない。メンタル不調者が出ない職場を「うちは問題ない」の根拠として提示する経営者や人事担当者に会うたびに、あの酸素の枯渇した湖の底を思い出すのだ。

念のため言っておくが、私はここで「メンタル不調者が多いほど健全だ」などという倒錯した主張をしたいわけではない。そういう雑な反転も、元の命題と同じくらい間違っている。私が問いたいのはもっと構造的なことで、つまり「症状の不在」を「健康の証明」と混同することの、認識論的な危うさである。

これは医学の根本的な問題でもある。症状とは何か。それは身体や精神が「これ以上は耐えられない」と発した信号であって、その信号が出ていないことは、問題がないことと論理的に等価ではない。信号を出す機能そのものが損なわれていれば、症状は出ない。糖尿病が長期間「沈黙の疾患」と呼ばれるのも、疼痛神経が壊死した末梢神経障害が発見の遅れを招くのも、同じ構造の話だ。

「1984年」の職場――恐怖による沈黙と、平和に見える統制の区別がつかない問題

オーウェルの『1984年』に登場するオセアニア国民は、表面上は非常に「安定」している。反乱も暴動も起きない。誰も公然と不満を口にしない。ある意味で、極めて「問題のない」社会だ。しかしその沈黙が何によって成立しているかを考えれば、誰もそれを健全と呼ばないだろう。

組織における沈黙にも、いくつかの異なる起源がある。本当に問題がないから誰も何も言わないのか、言っても無駄だという学習性無力感が定着しているのか、あるいは発言することへの暗黙の恐怖が組織文化として内面化されているのか。外から見た景色は、驚くほど似ている。静かな会議室、定時で帰る社員、離職率の低さ。これらは健全の指標として語られることが多いが、抑圧の完成形もまた同じ景色を呈することがある。

セリグマンが犬を使って行った例の実験を思い出してほしい。電気ショックから逃れられない環境に長期間置かれた犬は、のちに逃げることができる状況になっても、もはや逃げようとしなくなった。ただそこに横たわって、ショックを受け続ける。外から見れば「大人しい犬」だ。問題を起こさない。吠えない。逃げない。しかしその静けさの内実は、完全な崩壊である。

これは完全に蛇足ですが、セリグマンはその後「ポジティブ心理学」の父として180度違う方向に研究の重心を移すわけで、あの犬の実験から始まった人間が「人間の幸福とは何か」を問い直すに至るというのは、思想的な旅路として非常に面白い(笑)。余談終わり。

問題は、多くの組織がこの「横たわる犬」の状態を、従順さや安定として評価するインセンティブ構造を持っているということだ。不満を言わない社員は「扱いやすい」。異議を唱えない会議は「効率的」。誰も倒れない職場は「管理が行き届いている」。これらの評価は、沈黙の質を一切問わない。

ホメオスタシスの逆説――恒常性を保つために何が犠牲になっているか

生理学的に言えば、生体のホメオスタシスは精巧な均衡維持機構だ。体温、血糖値、血圧、pH。これらが一定の範囲内に保たれることで、生命は機能し続ける。しかし重要なのは、このホメオスタシスはタダではないという点だ。何かを一定に保つためには、必ず何かが消費され、何かが犠牲になる。恒常性はコストを伴う動的平衡であって、静的な安定ではない。

組織も同様だ。「問題が出ない」という表面的な均衡を維持するために、組織は何かを消費している。それが個々の社員の感情的リソースであったり、創造性や自律性への欲求であったり、あるいは単純な「言いたいことを言える余白」であったりする。その消費が可視化されないまま進行するとき、組織は外面的な安定を保ちながら、内部でゆっくりと疲弊していく。

ここで私が厄介だと思うのは、この内部消費がある閾値を超えるまで、症状として現れにくい構造を持っているという点だ。人間は社会的な存在であり、集団への適応能力が非常に高い。多少の不満は、「まあ仕方ない」「他もこんなものだろう」という認知的再評価で処理される。これは短期的な適応として合理的だが、長期的には問題の先送りと蓄積を生む。そして臨界点を超えたとき、それは突然の離職、突然の休職、突然の「なぜこんなことに」という経営側の驚きとして顕在化する。

その驚きは、毎回少し不思議だ。兆候はあった。ただそれが「メンタル不調者の発生」という形を取っていなかっただけで。

「順列都市」的思考――観測されない変数が、系を定義している

グレッグ・イーガンの『順列都市』には、シミュレーションされた現実の中で「観測されない領域はどう記述されるのか」という問いが通底している。少し荒っぽい読み方をすれば、観測できないものは存在しないのかという問いとも取れる。もちろんこれは量子力学の観測問題とも接続するが、今はそこには踏み込まない。

組織の健全性評価において、私たちは観測できるものを数える。休職者数、離職率、産業医面談の利用数、ストレスチェックの高ストレス者率。これらは確かに重要な指標だ。しかし、これらは「すでに閾値を超えた」ものを数えているに過ぎない。閾値手前でくすぶっている状態、言語化されていない疲弊、「辞めたいとまでは思っていないが、何かがおかしい」という感覚は、通常の観測網には引っかからない。

つまり、観測されていないからといって存在しないわけではない。これは認識論の初歩だが、組織マネジメントの現場では意外なほど忘れられている。数値の良い組織が、しかしどこか空気が重い。そういう組織に足を踏み入れたとき、私は「ああ、これはまだ観測されていないだけだ」という感覚を持つことがある(笑)。感覚に頼るのは科学的でないが、感覚を無視するのも別の意味で非科学的だ。

ちなみに、精神科の診断においても同様の問題がある。DSMの診断基準は「観測可能な症状の集合」によって構成されているが、それは「診断できる苦しみ」を定義しているに過ぎず、「苦しみの全体」を定義しているわけではない。診断名がつかないことと、問題がないことは、やはり論理的に別の話だ。これは余談ですが、この点についてはいつか別に書きたいと思っている。

炭鉱のカナリアが鳴かなくなった理由を、誰も問わない

炭鉱のカナリアという比喩はよく知られている。有毒ガスに敏感なカナリアを連れ込んで、カナリアが死んだら危険の前兆とした、あの話だ。メンタル不調者をこのカナリアに見立てる議論がある。感受性の高い者が先に倒れることで、組織の危険性が可視化されるという解釈だ。

この比喩には一定の妥当性がある。しかし私が気になるのは、カナリアが鳴かなくなったとき、その理由を二種類に分けて考える必要があるということだ。一つは、ガスがなくなったから鳴かなくなった場合。もう一つは、カナリアが慣れてしまったか、あるいはそもそも鳴けなくなってしまった場合だ。

後者を別の言葉で言い換えれば、感受性の高い人間が組織から去った後に残った状態、あるいはそういった人間が入社してこなくなった状態、あるいは「ここでは感じても言わない方がいい」という学習が完了した状態、ということになる。この状態において、組織は確かにメンタル不調者を出さなくなる。しかしそれは、センサーが壊れたからであって、ガスが消えたからではない。

歴史的には、このパターンは何度も繰り返されている。異論を言う者が粛清されたあとの共同体は、しばらくの間、極めて「安定」する。反対意見が出ない会議は、極めて「効率的」に見える。しかしその効率性が何を犠牲にして成立しているかは、後になってからでないとわからないことが多い。そしてたいていは、わかったときには遅い。

では私は何を言いたいのか、あるいは言いたくないのか

ここまで書いてきて、私は「だから何をすべきか」を書かないことにする。そういう記事ではないし、そもそも私はそういう立場で書いていない。処方箋を配ることより、診断の枠組みそのものを問い直す方に関心がある。

ただ一つだけ言えることがあるとすれば、それは「指標の選択が、何を見えなくするかを決定する」という、非常に基本的な認識論の話だ。メンタル不調者の数を健全性の指標として選んだとき、私たちはその指標に映らないものを組織の現実から除外することになる。これは指標が悪いということではなく、指標というものが本質的にそういう性質を持つということだ。地図は領土ではない、というあの言葉の意味は、精神科の文脈でも組織マネジメントの文脈でも、驚くほど普遍的に機能する。

「誰も倒れない職場」という事実は、それ単体では何も語らない。それが何を意味するかは、その沈黙の質によって決まる。そしてその質を問うことは、数値よりもずっと難しい問いかけを要求する。数値は答えを出してくれるが、質への問いは、答えが出たとしても次の問いを生む。おそらくそれが、組織と人間の関係を本当に考えようとするということの、正直な姿だと私は思っている。

── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。

著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。

近澤徹 医師の写真

医師監修:精神科医 近澤 徹

Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。

  • 医療法人鳳應会 理事長
  • 北海道大学医学部卒
  • 慶應義塾大学病院
  • 東京女子医科大学病院 研究員
  • 名古屋市立大学病院 客員研究員
  • 日本医師会認定産業医 / 精神科医
  • 株式会社Medi Face 代表取締役医師
  • 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
  • Z産業医事務所 代表医師
  • Medi Lex 代表医師
  • 須賀法律事務所 顧問医師
  • 日韓美容医学学会 常任理事
  • FRAISE CLINIC 統括医師
  • 日比谷セントラルクリニック 副院長
  • EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
  • アイエスクリニック六本木 統括医師
  • ルナビューティークリニック池袋 統括医師
  • 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院

編集部

Medi Face Journal編集部は、医療・テクノロジー・キャリア・ウェルビーイングといった領域を横断し、“いま本当に知るべきこと”を掘り下げて伝える専門メディアチームです。 医師・研究者・編集者・エンジニアなど、異なる背景を持つメンバーが集い、精神医療から産業ヘルスケア、医療人材のリアルまで、多角的な視点で「医療という営み」の本質に迫ります。

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