1984年のオーウェルが描いたテレスクリーンは、監視されているという事実よりも、「いつ見られているかわからない」という不確実性によって人間を統制した。フーコーがパノプティコンに着目したのも同じ理由だ。可視性の非対称性、つまり「見る者」と「見られる者」の分離こそが、権力の本質的な構造である。評価制度を論じるとき、私はいつもここから思考を始める。
一般に評価制度は「能力の測定」と語られる。MBOがあり、OKRがあり、コンピテンシーモデルがあり、360度フィードバックがある。それらは一見、科学の衣をまとっている。測定値があり、比較があり、分布がある。まるで心理統計学の実験計画のように整然と見える。しかし私には、どうしてもそう見えない。あの装置が測っているのは能力ではなく、人間の不安を特定の方向へ向かわせるための、精巧な分配機構なのではないかと思っている。
これは陰謀論ではない。むしろ逆だ。意図すらなく、自然発生的にそうなる、という話だ。組織という複雑系が、その恒常性を維持するために進化させてきた仕組みとして、評価制度を眺めると、その構造が驚くほど鮮明に見えてくる。
不安は消えない。ただ、行き先が変わる
組織に流れる不安の総量は、おそらく保存される。熱力学第一法則のように。評価制度が登場する以前、その不安は「誰が偉いのか」「誰が信頼されているのか」「自分はここに居ていいのか」という曖昧な霧として組織全体を覆っていた。評価制度は、その霧を一点に凝集させる装置だ。年に一度、あるいは半期に一度、不安を「スコア」という形に変換し、順位という勾配に沿って流す。霧は晴れたように見える。しかし不安の総量は変わっていない。ただ、方向と速度が変わっただけだ。
精神科の臨床で何年か過ごすと、評価面談の前後に受診者が増えるパターンに気づく。これを「評価制度のストレス効果」と呼んで片付けることは簡単だ。しかしもう少し構造的に見ると、評価期間という時間的区切りが、日常に分散していた不安を特定の時期に集積させているだけだということがわかる。分散していた不安が凝縮する。精神症状とはしばしばそのようにして発症する。
1950年代にセリエがストレス学説を体系化したとき、彼が強調したのはストレッサーの種類ではなく、適応反応の非特異性だった。つまり身体は、何に対してストレスを感じているかに関係なく、同型の応答パターンを示す。評価制度が誘発するストレスが「評価の内容」によるのか「評価されるという状況そのもの」によるのかを区別することは、実は非常に難しい。おそらく後者の比重の方が、はるかに大きい。
測定という行為が、測定対象を変容させる
物理学にハイゼンベルクの不確定性原理がある。観測行為そのものが、観測対象の状態を変えてしまう。これは量子論の話だが、人間という系においては、この現象がはるかに大きなスケールで起きる。評価制度が導入された瞬間、人々は「評価されるように」振る舞い始める。評価基準に書かれた行動を模倣し、評価者に見える場所で特定の行動を集中させ、評価に影響しない行動を合理的に削っていく。これは不誠実ではない。適応だ。遺伝的アルゴリズムが環境の適合度関数に従って世代を更新していくように、評価制度という適合度関数が、人間の行動レパートリーを静かに選択していく。
問題は、その適合度関数が「組織の本当の目的」と一致しているかどうかだ。多くの場合、一致していない。評価基準は過去の成功パターンを言語化したものであり、現在の環境には最適化されていない場合が多い。恐竜が白亜紀末の環境に完璧に適応していたように、多くの評価制度は「それが設計された時代の環境」に最適化された行動を選択し続ける。
ちなみに、これはGoodhart’s Lawとして知られている。「測定値が目標になった瞬間、それは良い測定値ではなくなる」という経済学・政策科学の法則だ。ソ連の工場が釘の生産量ではなく重量で評価されると、一本の巨大な釘を作り始めたという逸話は笑えるが(笑)、現代の評価制度でも同型の現象は至るところに起きている。KPIを達成するために本質的な仕事を犠牲にする、という話は、別に珍しくもない。
評価者もまた、評価されている
評価制度の持つ最も巧妙な構造は、評価する側もまた不安を負うという点だ。評価者は「正しく評価できたか」「部下に不満を持たれていないか」「自分の評価基準が組織の意向と一致しているか」という別種の不安を生きる。つまり評価制度は、不安を分配するだけでなく、不安の生成源そのものを増殖させる。これはネットワーク効果を持つ不安システムだ。
産業医の仕事をしていると、この構造を両側から観察できる。評価される側の恐怖と、評価する側の苦悩は、しばしば鏡像のように対称をなしている。「あの部下をどう評価すればいいかわからない」と悩む管理職の顔と、「自分はどう評価されているかわからない」と悩む一般職の顔は、表情のレベルでは区別がつかない。同じ不安が、異なる位置から照射されているだけだ。
これは余談だが、攻殻機動隊の草薙素子が繰り返し問い続けた「私はどこにいるのか」という問いは、アイデンティティの問いであると同時に、評価の問いでもある。自分が何者であるかは、しばしば「誰がどのように自分を見ているか」によって規定される。評価制度はその意味で、アイデンティティ形成の外部装置でもある。これが「評価が低かったとき」の傷の深さを説明する。能力への打撃ではなく、存在への打撃として受け取られるからだ。
公正さという幻想、あるいは神話の機能
「公正な評価」という概念は、宗教における「最後の審判」と構造的によく似ている。誰もその完全な実現を見たことがないが、存在を信じることで人々は行動を規律する。公正な評価が実現できると信じているから評価制度に従う。審判の日が来ると信じているから道徳的に生きる。どちらも、機能としては同型だ。
ロールズが「無知のヴェール」という思考実験で示したように、公正さとは、自分がどの位置に置かれるかを知らない状態で選択するルールの中にしか存在しない。しかし評価制度において、評価基準を設計する人間は、自分がどの位置に置かれるかをすでに知っている。設計者は通常、評価される側より有利な立場にある。この構造的非対称性が、「公正な評価」を原理的に困難にする。それは努力や誠実さの問題ではなく、設計の問題だ。
にもかかわらず、「公正さへの信仰」は組織にとって必要なフィクションとして機能する。ユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」で論じたように、人間という種は共有されたフィクションによって大規模な協力を実現してきた。貨幣も国家も企業も、その意味では共有されたフィクションだ。評価制度の「公正さ」もまた、そのリストに加えてよいだろう。信じることが、機能させる。機能することが、信じさせる(笑)。
それでも制度は要る、という静かな矛盾
ここまで評価制度の構造的問題を解剖してきたが、私はそれを廃止すべきだと言いたいわけではない。廃止したところで、不安の総量は変わらない。霧に戻るだけだ。霧はスコアより扱いにくい。少なくともスコアには、異議申し立ての足場がある。霧には足場すらない。
また、これは完全に蛇足ですが、Animatrixの「セカンド・ルネッサンス」で描かれたように、支配の構造を作り出したのは常に支配する側ではなく、支配される側の選択と妥協の積み重ねでもある。評価制度に従い、それを内面化し、次世代へ伝えていくのは、評価される側の人間だ。構造の外に立つことは、物理的にはおそらく可能だが、実存的にはほぼ不可能に近い。私たちは生まれた瞬間からすでに何らかの評価の内側にいる。
問題は評価制度の存在ではなく、その機能についての無自覚さだと思う。不安を測定しているのに能力を測定していると思い込むこと。公正さのフィクションを事実と混同すること。評価者と評価される者が、同じ不安の海に浮かんでいることを忘れること。これらの無自覚さが、制度を硬直させ、人を消耗させる。
カミュはシーシュポスを幸福な人間として描いた。岩を転がし続けることを知りながら、それでも転がす、という選択の中に人間の尊厳を見た。評価制度の中で働くことも、おそらくそれに近い構造をしている。制度が何を測っているかを知りながら、それでもその中で何かを積み上げていく。幻想と知りながら公正さを追い求める。その営みを、愚かだとは私には言えない。言えないが、そこに何らかの根拠のある哀愁は感じる。
評価制度が不安の分配装置であることを知ったとして、それで何が変わるのか。おそらく何も変わらない。変わるとすれば、ただ一点、自分が不安を感じているときに「これは私の能力の問題かもしれないが、同時に構造の問題でもある」という、もう一枚の視点を持てるかどうか、というだけだ。それが救いになるかどうかは、私には判断できない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








