1946年、ニュルンベルク裁判でハンナ・アーレントが後に「凡庸さの悪」と名付けることになる現象の原型を目撃した。アドルフ・アイヒマンは怪物ではなかった。彼はただ、命令に従い、会議で承認し、書類に署名し続けた。思考を停止したまま、組織の論理に乗り続けた結果として、数百万人が死んだ。アーレントが戦慄したのは、その「普通さ」だった。
私がこの話を持ち出すのは、何も大仰な比喩が好きだからではない(多少は好きだが笑)。ただ、「会議における合意」という現象の構造を剥いていくと、最終的にそこに行き着く何かがある、という予感が拭えないからだ。もちろん規模は違う。しかし構造は相似する。組織の中で「異論を出さない」ことが徳とされる空気は、規模の問題ではなく、ガバナンスの問題であり、文化の問題であり、突き詰めれば人間の神経系の問題でもある。
世の中には「良い会議」の作り方を説くビジネス書が溢れている。アジェンダを事前に共有せよ、タイムボックスを設けよ、ファシリテーターを立てよ。それらは全部正しい。だが私が気になるのは、そういう技術論の手前にある、もっと根本的な問いだ。なぜ人は、異論を出すことを怖れるのか。なぜ「沈黙」は「賛成」と解釈されるのか。なぜ、合意した瞬間に誰もが少しだけ安堵するのか。この安堵の正体を、私はずっと考えている。
これは組織論ではなく、生物学の問題かもしれない。あるいは、もっと古い何かかもしれない。
同調圧力は道徳ではなく神経系の産物である
1951年、社会心理学者ソロモン・アッシュは有名な実験を行った。複数の被験者を集め、明らかに長さの違う線分を「どれが同じ長さか」と問う。ただし、被験者以外は全員サクラで、意図的に間違った答えを言う。結果は衝撃的だった。正常な視覚を持つ被験者の約75%が、少なくとも一度は多数派の誤答に同調した。「自分の目で見たものより、集団の声明を信じた」わけだ。
この実験は「同調圧力」の文脈で語られることが多いが、私はもう少し神経科学的な解釈が好きだ。ミラーニューロンの存在が示すように、人間の脳は他者の行動・感情・意図を自分の内部でシミュレートするように設計されている。集団の中で「一人だけ異を唱える」ことは、神経系レベルで「痛み」に近い信号を発生させる。帰属の喪失、排除の予感、この予感は扁桃体を刺激し、前頭前野の判断力を部分的にシャットダウンする。つまり「反論できない」のは性格の問題ではなく、生存本能の問題だ。
進化的に考えれば合理性がある。数万年前、部族から追い出された個体は死ぬ。集団の合意に逆らうことは、文字通り生命リスクだった。その神経回路が現代の会議室に持ち込まれている。上司が軽く頷いた瞬間、部下の脳内で「合意しなければ危険」というシグナルが発火する。これはホメオスタシスと同じ構造だ。逸脱を感知して、元の状態に引き戻す。安定を維持するための機構が、思考の多様性を殺す。
ちなみにこれは完全に蛇足ですが、遺伝的アルゴリズムの観点から見ても面白い。進化計算の分野では、解の多様性(diversity)が失われると、局所最適解に収束して全体最適を探索できなくなる現象を「早熟収束」と呼ぶ。会議室で起きていることも構造的には同じで、異論という「突然変異」が排除された組織は、現在の解の近傍をぐるぐると回り続ける。変化を要求される環境に置かれたとき、そのような組織はあっさりと崩壊する。進化も組織も、多様性こそがレジリエンスの源泉なのだが、個体レベルの神経系はそれを歓迎しない。矛盾した設計だ(笑)。
「儀式としての会議」はなぜ永続するのか――権力の自己確認装置について
エルンスト・カントロヴィッチが『王の二つの身体』で論じたように、中世ヨーロッパの王権は「自然的身体(生物としての個人)」と「政治的身体(制度としての王権)」の二重構造を持っていた。儀式の役割は、この二つを融合させ、権力を可視化し、再生産することだった。戴冠式は王を選ぶ儀式ではない。すでに決まった秩序を確認し、参加者全員に「この秩序に加担した」という共同体験を与える儀式だ。
現代の組織会議は、このカントロヴィッチ的構造をほぼそのまま踏襲している。結論が事前に根回しで決まり、会議はその確認儀式として機能する。参加者は「意思決定に参加した」という感覚を与えられ、組織への帰属感を強化する。上位者は「合意を形成した」という正当性を獲得する。誰も傷つかない。誰も突出しない。誰も責任を取らない。完璧なシステムだ。
問題は、このシステムが知性の産物ではなく、権力の産物であるという点だ。ソクラテスは「無知の知」を出発点として対話を始めたが、彼が行ったのは相手の前提を壊すことだった。問答によって合意を崩し、不快感を生み出し、思考を強制する。だからアテネ市民は彼を危険視し、最終的に毒を飲ませた。儀式を乱す者は、いつの時代も排除される。
儀式としての会議が永続する理由は単純だ。「何も決めないこと」よりも「決めた振りをすること」の方が、組織の安定に寄与するからだ。ここには深い倒錯がある。意思決定の場のはずが、意思決定を回避するための装置として機能している。
衝突の不在は、何が欠けているのではなく、何かが多すぎる証拠だ
よく「心理的安全性」という概念が持ち出される。エドモンドソンの研究に基づくこの概念は、Googleのプロジェクト・アリストテレスによって一躍有名になった。「失敗を恐れずに発言できる環境がチームの生産性を高める」という知見は正しい。しかし私が気になるのは、この概念が普及した結果として、「衝突しないこと」と「心理的安全性」が混同されるようになった現象だ。
衝突がないことは、心理的安全性の証明ではない。むしろ逆説的に、衝突の不在は「互いへの期待の低下」を示している場合がある。相手が本気で聞く耳を持っていないと判断したとき、人は反論するコストを放棄する。これは諦めであって、安全ではない。あるいは、組織の同質性が高まりすぎた結果として、そもそも異論が生まれない構造になっていることもある。同じバックグラウンド、同じ価値観、同じ言語で思考する集団には、内部から異質な問いが生まれにくい。
これは余談ですが、免疫学の「自己寛容」という概念を思い出す。免疫系は「自己」と「非自己」を区別するよう設計されているが、自己反応性T細胞が完全に排除されると、逆に免疫系は適切に機能しなくなることが知られている。適度な自己への疑いが、システムの健全性に必要なのだ。組織も同じで、内部に一定量の「自己否定」が流通していない組織は、外部からのウイルスに対して著しく脆弱になる。衝突を排除した組織は清潔に見えて、実は免疫不全だ。
衝突がないのは「信頼があるから」ではない。信頼があるから衝突できるのだ。この違いは小さいようで、組織の設計思想を根本から変える。
攻殻機動隊と1984の間で――「考えること」が許されない組織の末路
オーウェルの『1984』でウィンストン・スミスが最も恐れたのは、拷問でも死でもなかった。「自分が真実だと思っていたことが、自分の内部から崩壊していく」体験だった。二重思考(doublethink)の恐怖は、外部から正解を押し付けられることではなく、自分自身が「矛盾を矛盾として認識しなくなる」能力を獲得してしまうことにある。会議室での自発的な沈黙は、この二重思考の日常版だ。「異論がある」と認識しながら、「ない」として振る舞う。最初は演技だが、やがて演技と現実の境界が溶ける。
攻殻機動隊の草薙素子が問い続けたのは「自己とは何か」だったが、それを「組織とは何か」に置き換えてもよい。義体と電脳で構成された身体がアイデンティティを保てるとしたら、それは記憶と思考の連続性によるものだ。同じように、組織のアイデンティティは、内部での思考の多様性と衝突の歴史によって形成される。全員が同じ方向を向き、誰も異論を言わない組織は、効率的に見えて、実は「自己」を失っている。
グレッグ・イーガンの『順列都市』で、完全にシミュレートされた存在たちが直面した問題は「どこまでが本物の意思決定か」という問いだった。人間が作ったシステムの中で、人間がシステムの論理に従って動くとき、その意思決定はシステムのものか人間のものか。会議で手を挙げた瞬間、それはあなたの判断か、組織の文法に従った反射か。
問いは深まるばかりで、答えは出ない。
衝突の設計は、結論の設計より難しい
ここまで書いてきて、私が「衝突せよ」という話をしているように見えるかもしれないが、それは少し違う。衝突には質がある。感情的な対立、利害の衝突、マウンティング的な異論提起。これらは単なるノイズだ。私が「健全な衝突」と呼ぶのは、前提への疑問、論理の検証、別の変数の持ち込みであり、それは単なる反論ではなく「思考の負荷テスト」に近い。
ソクラテスのエレンコス(論駁法)は、相手を論破するためではなく、相手自身が自分の無知に気づくための装置だった。会議における衝突も、勝敗ではなく発見を目的とするなら、それは知性の実装だ。しかし人間の神経系は、そのような衝突でも「脅威」として認識する。これが設計の困難さだ。技術でも文化でも部分的には対応できるが、生物学的な制約を完全には超えられない。
産業医として組織を見続けて思うのは、衝突を許容する文化は、リーダーが衝突に耐える身体を持っているかどうかで決まる、ということだ。異論を言われたとき、防衛的にならず、論理として受け取り、思考に変換できるかどうか。これは性格ではなく、訓練と経験の産物だ。そしてその身体を持つリーダーがいる組織では、会議は儀式ではなく、思考の場として機能し始める。
ただ、そのような組織は少ない。少ないどころか、希少だ。
儀式の方が楽だし、美しいのかもしれない。カントロヴィッチの王たちも、美しい儀式の中で安定した権力を保ち続けた。少なくとも、革命が起きるまでは。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








