META: 「心理的安全性」という言葉が職場に蔓延して久しい。しかし対話を求める者が安全基地を持っていない場合、その対話要求はいかなる構造的暴力として機能するか。ボウルビィ、フーコー、そして制御理論の視点から静かに解体する。
ジョン・ボウルビィが愛着理論を体系化したのは1960年代のことだが、彼が「安全基地(secure base)」と呼んだ概念は、今もって精神医学の中で最も地味に、最も確実に機能している概念のひとつだと私は思っている。子どもが探索行動を取れるのは、戻れる場所があるからだ。親という安全基地がなければ、子どもは世界を探索するのではなく、世界から身を守ることに全リソースを投入する。これは動物行動学的にも確認されており、ハーロウの悪名高い代理母実験が示したのも結局のところ同じ原理だった。哺乳類は「接触の慰安(contact comfort)」なしには、探索も学習も、ましてや関係性の構築もできない。
この話を組織の話にずらすのは、あまりにも簡単すぎてかえって躊躇するのだが、今回はその安易さをあえて選ぶ。なぜなら、躊躇して遠回りしているうちに、職場という名の実験室では毎日、この原理が無視されたまま大量の「対話」が生産され続けているからだ。
管理職が「もっとオープンに話し合おう」と言う。一対一の面談を設ける。「何でも言ってください」と告げる。その言葉の表面だけを見れば、これ以上に健全なものはない。しかし、その管理職が評価権を持ち、昇進を左右し、チームの雰囲気を一人で支配していて、しかも自分自身が誰かに弱さを見せたことが一度もないとしたら——そのとき、その「対話の場」はいったい何なのか。
これは悪意の問題ではない。構造の問題だ。そして構造の問題は、個人の善意によっては解決しない。むしろ善意があるほど、問題は見えにくくなる。
ホメオスタシスとしての権力——システムは均衡を維持しようとする
ミシェル・フーコーが権力を「抑圧するもの」ではなく「生産するもの」として再定義したのは正しかったと、私はこの仕事をしながら繰り返し実感する。権力は禁止しない。権力は語らせる。告白させる。「率直に話せ」と命じる。パノプティコンの看守は囚人に「何でも言え」とは言わないが、現代の組織の管理職はそう言う。そして被観察者は、観察されている状況で「自発的に」語る。
ここに制御理論的な逆説がある。システムがホメオスタシスを保とうとするとき、フィードバックループは現状維持の方向に働く。管理職が権力の頂点にいる組織で「何でも言え」という指示が出された場合、そのシステムは「管理職が聞きたいことを言う」という均衡点に収束しようとする。これは誰かの悪意ではなく、複雑系としての組織が自己組織化する過程で必然的に生じる。部下たちは意識的にではなく、無意識の社会的認知として、管理職が受け取れる情報と受け取れない情報を分類し始める。心理的安全性が担保されていない空間では、対話は「安全な対話の演技」に置き換わる。
これは完全に余談だが、Animatrixの「マトリックスの世界」第一話で、最初の機械たちが人間に奴隷扱いされながらも「共存を訴えた」場面を思い出す。彼らの対話の求めは誠実だったが、その対話を受け取るだけの構造が人間社会にはなかった。結果として対話要求は暴力的な鎮圧を呼び込んだ。これを組織に当てはめるのは乱暴だとわかっているが(笑)、「対話を求める側が構造的に強者である」という非対称性は、あの寓話が示したものと本質的に同型だと思っている。
安全基地の不在は、なぜ見えないのか——防衛機制としての「対話への信仰」
精神分析の語彙を借りるなら、管理職が「対話」を求めるとき、しばしばそれは合理化(rationalization)として機能している。本来の目的——チームの統制、評価の正当化、自分の管理能力の証明——を「コミュニケーションの改善」という高尚な目的に昇華する。当人は本当に信じている。「私は部下のために対話の場を作っている」と。防衛機制の恐ろしさは、それが意識されないことにある。
実際、私が産業医として関わった複数の組織で見てきたパターンがある。メンタルヘルス不調者が増加し、調査に入ると、該当部門の管理職は例外なく「自分はコミュニケーションを大切にしている」と述べる。面談も実施している。1on1も行っている。しかし話を聞いていくと、その面談の場では管理職が9割話していた、あるいは部下が話した内容が翌週の業務指示に「反映」されていた、つまり発言が即座に評価・管理のツールとして使用されていた、ということが明らかになる。
これはボウルビィの言語で言えば、「安全基地のふりをした検問所」だ。検問所では、人は本当のことを話さない。通過するために必要なことを話す。
ちなみに、ニール・スティーヴンスンの小説まで引っ張るつもりはないが、「情報の非対称性が極限まで拡大した社会では、コミュニケーションは情報伝達ではなくシグナリングゲームになる」というゲーム理論的事実は、ここでもそのまま当てはまる。部下が面談で語る言葉の相当部分は、情報ではなくシグナルだ。「私はあなたの期待に応えようとしています」というシグナル。
脆弱性の開示——安全基地を作るとはどういうことか
ブレネー・ブラウンが「脆弱性(vulnerability)」を組織論に持ち込んだとき、日本の管理職層はこれを大いに誤読した。脆弱性を見せることが「部下との距離を縮めるテクニック」として消費され始めた。「実は私も昔は失敗したんですよ」という自己開示が、マネジメントの技法として教えられた。しかし技法としての脆弱性開示は、本物の脆弱性ではない。それは制御された開示であり、リスクを管理した上での「弱さの演技」だ。
本当の安全基地を構築するためには、管理職が制御できない弱さを持っていなければならない。これは哲学的な要請ではなく、神経生物学的な事実に近い。人間の扁桃体は、相手が本当に脆弱であるかどうかを非常に精密に、そして無意識のうちに評価している。微細な表情変化、声のトーン、呼吸のリズム——これらの総体から「この人は今、本当に開かれているか、それとも演じているか」を判別する。技法として脆弱性を演じる管理職は、往々にして部下に見抜かれている。部下は見抜いていることを言語化できないが、なぜかその上司に「本当のことが言えない」という感覚を持つ。
これは余談ですが、攻殻機動隊の草薙素子が「ゴーストを持つ」ことを実存的な問いとして抱えていたように、「制御できない何か」を持っていることが、かえって他者に人間性として認識される——という逆説は、義体化が進んだ彼女の物語においてかなり鋭く描かれていたと思う(笑)。管理職の「人間性」も同じ構造の上に立っているのかもしれない。
非対称な遺伝的アルゴリズム——権力格差の中で「適応」とは何か
進化的な観点から考えると、権力格差のある関係の中でより強い選択圧を受けるのは、常に弱者側だ。遺伝的アルゴリズムにおける適応度関数(fitness function)が、強者によって設定されている場合、弱者の「適応」は必然的に強者の期待に近づく方向に収束する。これは道徳の話ではなく、変異と選択が繰り返される系において数理的に必然のことだ。
組織においてこれが意味することは明確だ。管理職が評価権を持ち、かつ「対話を求める」という選択圧を加えた場合、部下集団は世代を重ねるごとに(ここでの「世代」は実際の世代交代ではなく、観察学習と規範形成のサイクルを指す)「対話の演技に長けた個体」を増やしていく。管理職は「部下がオープンになった」と感じる。しかし実際に起きているのは、より洗練された適応だ。システムはより精緻な均衡に到達し、管理職はそれを「関係性の改善」と呼ぶ。
これが危険なのは、数値上は何も問題が見えないからだ。エンゲージメントサーベイのスコアは上がる可能性すらある。「管理職と話しやすい」という設問への回答は好転するかもしれない。しかし情報の質は劣化し、組織の認識はますます現実から遊離していく。1984年のウィンストン・スミスが書いたのと同じことを、現代の部下たちも心の中に書いている——「2+2=5。党はそう言っている」。
問いが残る場所に立つ
私がここで何かを「解決」しようとしていないのは、構造的な問題に処方箋を出すことが、それ自体また別の権力行使になりうると知っているからだ。「こうすれば心理的安全性が生まれます」と言う者は、その瞬間に「心理的安全性をめぐる言説の権威」を獲得する。そしてその言説もまた、誰かの安全基地を破壊する素材になりうる。
安全基地とは、設計されるものではないのかもしれない。設計された安全は、安全に見える檻だ。ボウルビィが観察した乳児たちの探索行動は、親が「さあ探索してください」と宣言したから始まったのではない。親が黙ってそこにいて、子どもが何度戻ってきても変わらずそこにいたから、子どもは「戻れる」と学習した。その学習に要した時間は、面談の45分ではなく、年単位の累積だった。
管理職が安全基地を持っていない、という命題に戻る。自分が不安定なまま他者に安定を提供しようとするとき、人はしばしば「対話」という形式に過剰な機能を割り当てる。形式が機能を代替しようとする。しかし形式はどこまでいっても形式だ。高分圧酸素が必要な空間に、酸素濃度の高い壁紙を貼るようなものだ——見た目は緑豊かで、息は苦しいまま。
対話が暴力にならないための条件は、対話を求める者が自分自身の安全基地を持っていることだ、とひとまず言える。ではその安全基地はどこにあるのか。管理職のそれは誰が担保するのか。組織は、管理職を安全にするための構造を持っているか。問いは上へ、上へと続いていく。どこかで必ず、構造ではなく人間に行き着く。そこに行き着いたとき、私たちは何を見るのか。
まだわからない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








