META: 努力が足りないのではなく、回復が足りない。その差異は小さいようで、組織論・生理学・哲学のどれから眺めても深淵だ。ホメオスタシスの裏側から、現代の労働倫理を静かに解体する。
1930年、ジョン・メイナード・ケインズは「我々の孫の時代には、週15時間労働が実現するだろう」と書いた。技術が進歩すれば人間は解放される、という素朴な信頼がそこにはあった。結果はご存知の通りで、週15時間労働は実現しなかった。むしろ多くの人が週60時間を超えて働き、なおかつ「もっと頑張れるはずだ」という内圧を抱えながら椅子に座っている。ケインズの予言が外れたというより、何かが根本的にねじれたのだと思う。
産業医として組織を見ていると、パフォーマンスが落ちている社員に対して、周囲も本人も一様に「努力不足」という診断を下すのを目撃する。これが興味深い。なぜ「努力不足」という仮説が、「回復不足」という仮説より先に浮上するのか。証拠の問題ではなく、文化的な反射の問題だ。私たちは「努力不足」という物語を好む。なぜなら、それには解決策がセットで付いてくるからだ。「もっとやれ」という処方箋は、考える必要がない。
しかし生理学はもっと無愛想だ。筋肉は負荷をかけただけでは成長しない。負荷の後に休息があって初めて、超回復というプロセスが走る。これはスポーツ生理学の基礎の基礎であり、異論の余地がない。なのに、なぜ「脳」や「認知資源」や「感情的エネルギー」については、この常識が適用されないのか。肉体には休息が必要だと知っていながら、精神には無限の耐久性を期待する。この非対称性は、怠惰ではなく、信仰の問題だ。
今回はそこを少し丁寧に掘り下げてみたい。努力不足か回復不足かという二択の話ではなく、なぜ私たちがその二択を間違い続けるのか、という構造の話として。
ホメオスタシスは「バランス」ではなく「闘争」である
ホメオスタシスという言葉は、しばしば「安定」や「バランス」の同義語として使われる。これは正確ではない。ウォルター・キャノンが1926年に定式化したこの概念の核心は、恒常性とは静的な均衡ではなく、常に乱されながら常に修正し続けるダイナミックなプロセスである、ということだ。体温が37度前後に保たれているのは、何もしなくていいからではなく、膨大なエネルギーを消費して熱産生と放熱のバランスを取り続けているからだ。
つまり「安定している」という状態は、すでにコストを払っている状態だ。さらにその上に外的な負荷がかかれば、システムはより多くのリソースを修正に投入しなければならない。そのリソースには上限がある。これをアロスタティック負荷(allostatic load)という。ロックフェラー大学のブルース・マキューエンらの研究は、慢性的な心理社会的ストレスがアロスタティック負荷を蓄積させ、神経・内分泌・免疫系の複合的な機能不全を引き起こすことを示した。これは比喩ではなく計測可能な生物学的現実だ。
ここで問いが生まれる。アロスタティック負荷が高まった状態の人間を見て、「もっとやれ」という指示を出すとき、それは何に対して指示を出しているのか。すでにフル稼働しているシステムに対して、出力を上げろと命じることの意味は何か。エンジンが過熱しているのに、アクセルを踏み込む。メカニカルには、これは故障の手順だ。
「疲れ」を測定できないことの暴力性
骨折は見える。発熱は測れる。しかし疲弊した前頭前野は、X線には映らない。これが問題の根源の一つだと思う。可視化できないものは、存在しないか、あるいは意志の問題だとみなされる。中世の人間が頭痛を「悪魔の仕業」と解釈したのも、当時の観測技術の限界の問題だった。頭痛のメカニズムが解明されてから、誰も頭痛持ちを「意志が弱い」と言わなくなった。
認知的疲労の研究は、少しずつこの問題に光を当てている。2022年にNature Neuroscience誌に掲載されたマチアス・ペシグラウらの研究は、長時間の認知作業後に前頭前野のグルタミン酸が蓄積し、これが意思決定の質を低下させることを示した。疲労感という主観的な経験は、神経化学的な現実に対応している。「気のせい」でも「甘え」でもなく、物理的な基質がある。
これは余談ですが、私が興味深いと思うのは、この研究が「疲れたと感じるとき、実際に疲れている」という、ほとんど当たり前のことを証明するために、莫大なコストをかけなければならなかったという事実だ(笑)。「当たり前のことを証明するための科学」というのは、人間の認識がいかに偏っているかの証左でもある。私たちは「見えないもの」を信じるために、証拠を要求する。見えるものには証拠を求めない。この非対称性が、疲弊した人間に対する「頑張れ」という呪いを生み出している。
プロテスタンティズムの亡霊と、その生き残り方
マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、カルヴァン主義的な禁欲と勤労が近代資本主義の精神的基盤を作ったと論じた。予定説という神学的な緊張の中で、人間は「自分が救済されている証拠」を労働の成果に求めるようになった。働くことは徳であり、怠惰は罪だ。この倫理が宗教的な外皮を脱いでも、構造としては生き残った。
現代の職場に漂う「頑張っている人が偉い」という空気は、ウェーバーが指摘した精神の直系の子孫だ。成果ではなく、努力の姿勢が評価される文化。長時間労働が「コミットメントの証」として機能する文化。これらは偶然の産物ではなく、数百年かけて構築された価値体系の残滓だ。
問題は、この価値体系が一度も「回復」を徳として位置づけなかったことだ。休息は義務ではなく、怠惰への傾斜だとみなされた。しかし生理学的には、回復こそが次の出力を可能にする唯一の手段だ。ここに根本的なパラドックスがある。より多くを生産したければ、より多く回復しなければならない。しかし回復は怠惰に見える。したがって、より生産しようとする文化は、体系的に生産性を破壊する。
これは完全に蛇足ですが、攻殻機動隊のバトーがある場面で言う「俺の脳みそには休日がない」というニュアンスの台詞を思い出す。サイボーグ化されても消えない疲労感というモチーフは、押井守が意図したかどうかに関わらず、上記の問題を完璧に圧縮している。肉体を換装しても、認知系のアロスタティック負荷は消えない。これはSFではなく、予言だったかもしれない。
組織が「努力不足」という仮説を好む理由の構造分析
ここで少し意地悪な観察をしてみたい。「回復不足」という診断を組織が採用しにくい理由は、それが組織側の問題を含意するからだ。「努力不足」は個人の問題だ。個人を変えれば済む。しかし「回復不足」は、仕事量、期待値、職場環境、心理的安全性、管理職の行動様式、組織文化、といった構造的な問題を芋づる式に引き出す。
遺伝的アルゴリズムの用語を借りれば、「努力不足」という診断は局所解への収束を意味する。近くにある解(個人の行動変容)に素早く向かうが、大域解(組織構造の変革)には決して到達しない。組織は問題を解決したように見えて、問題の構造には手をつけていない。そして次の疲弊した社員が現れたとき、また同じ診断を下す。
これはシステムとして見ると、驚くほど安定している。組織が「努力不足」という診断を繰り返すこと自体が、組織のホメオスタシスとして機能している。構造を変えないための恒常性維持システム。ある種の知的な皮肉として、これは美しいとすら思う(笑)。問題の本質を温存することで組織が安定するという、倒錯した均衡だ。
回復とは何か――睡眠という最後の砦の話
回復の具体的な機序について、最も解明が進んでいるのは睡眠だ。2013年にマイケン・ネーダーガードらがScience誌に発表したグリンパティック系の研究は、睡眠中に脳脊髄液が脳実質を洗浄し、アルツハイマー型認知症の原因物質の一つであるアミロイドβを排出することを示した。脳は睡眠中に自己清掃する。これが不十分だと、文字通り老廃物が溜まる。
睡眠不足の影響は、自覚的なパフォーマンス低下よりも、客観的な機能低下の方が大きい。これはペンシルバニア大学のデービッド・ディンジェスらが示した不快な事実だ。睡眠が6時間に制限されると、2週間後には2日間の完全徹夜と同等の認知機能低下が生じる。しかし被験者はそれを「少し眠い」程度にしか感じない。自覚と実態の乖離が、最も危険な状況を作る。「自分は大丈夫だ」と思っている人間が、最も機能していない、という構造だ。
職場でパフォーマンスが落ちている社員の多くは、自分が疲弊していることに気づいていない。あるいは気づいていても、それを「弱さ」として内面化して隠している。これは嘘をついているのではなく、疲弊した脳が自身の疲弊を正確にメタ認知できないという、純粋に生物学的な問題だ。「頑張れ」という言葉が届かないのは、意欲の問題ではなく、受信機が壊れているからかもしれない。
証拠のない希望より、証拠のある絶望の方がまだ使える
ここで何か明るい結論を出したいところだが、私はその誘惑に抗いたい。「休みましょう」「回復を大切に」という処方箋は、ウェーバー的な労働倫理の前では紙細工だ。文化は個人の努力で変わらない。変わるとすれば、構造が変わるか、あるいは変わらないことのコストが可視化されるときだ。
組織の持続可能性という観点から見れば、回復を軽視することは長期的な生産性の自己破壊だ。これは道徳論ではなく計算の問題だ。アスリートの世界では、回復プロトコルの設計が競技力に直結することは常識になった。なぜビジネスパーソンには同じ論理が適用されないのか。おそらく答えは、アスリートのパフォーマンスは計測されるが、知識労働者のパフォーマンス劣化は測定しにくいからだ。見えないものは、存在しないものとして扱われる。この問題は、最初の問いに戻ってくる。
私が観察しているのは、努力不足でも回復不足でもなく、「回復不足を努力不足と誤読し続けるシステム」の問題だ。これは個人の意識の問題ではなく、組織の認識論の問題だ。そして認識論の問題は、誰かが「頑張れ」と言っても解決しない。1984年のウィンストン・スミスが、体制の言葉で体制を批判できなかったように、努力不足という語彙しか持たない組織は、回復不足という現実を語ることができない。語ることができない現実は、存在しないものとして処理される。
どこに希望があるとすれば、それは測定技術の進歩の中にあるかもしれない。見えないものが見えるようになれば、それを無視することのコストが上がる。あるいはないかもしれない。私にはわからない。ただ、努力不足という古い物語が、そろそろ寿命を迎えつつあることだけは確かだと思っている。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








