ウィトゲンシュタインはかつて「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と書いたが、現代の職場はこの命題を完全に無効化しようとしている。「なんでも話してほしい」「心理的安全性を大切にしたい」——そういう言葉が会議室に張り巡らされ、管理職は対話を「推進」し、メンバーは「開示」を求められる。語りえぬものを語らせようとする組織的意志。これは一種の哲学的暴力だと、私はずっと思っている。
もちろん、その言葉の発端にあるのは悪意ではない。心理的安全性という概念はエドモンドソンの研究に端を発し、Googleが「Project Aristotle」で再発見して以来、経営用語として急速に普及した。「チームの生産性を高めるには心理的安全性が必要だ」という命題は、それ自体は正しい。問題は、命題が正しくても、それを扱う人間の内的構造がその命題に追いついていない場合に何が起きるか、ということだ。
私が産業医として現場を歩いていた頃、繰り返し目撃した光景がある。「うちはなんでも話せる雰囲気を作りたいんです」と言う管理職が、部下の開示に対してわずかに眉をひそめる、あの一瞬の表情。その表情が、それ以前に積み上げられた「安全の言説」をすべて無効化する。部下の神経系はそれを見ている。言語より速く、論理より正確に。
問題の核心は「安全を提供できない人間が安全を要求している」という逆説的な構造にある。これは単なる未熟さの話ではない。もっと深いところに根がある。
「容器」なき「注ぎ込み」——対象関係論的に見た管理職の要求
精神分析の語彙を借りれば、ウィニコットの「ホールディング」という概念がある。乳幼児が情動を調整できるようになるのは、養育者がその情動を「受け取り、消化し、返す」能力を持っているからだ。この過程を経て初めて、子どもは自分の内的状態を言語化し、他者と共有できるようになる。対話の能力は、安全な「容器」の中で育まれる。
ここで重要なのは、容器としての機能を果たすためには、養育者自身が相当程度「調整されている」必要があるという点だ。自らが未処理の不安を大量に抱えた養育者は、子どもの情動を受け取ることができない。受け取れないどころか、子どもの情動によって自分の不安が刺激され、逆に子どもを「調整」しようとする。これを現代の職場に翻訳すると、驚くほどそのまま当てはまる。
未処理の不安——業績への恐怖、上位への服従、自己承認の欠如——を抱えた管理職は、部下からの「開示」を受け取ることができない。開示を受け取るには、その情動を一時的に自分の中に置いておく耐性が必要だが、容器として機能していない人間にはその余白がない。結果として何が起きるか。「話してほしい」と言いながら、実際に話されると処理できず、防衛的になるか、逆に部下に解決を求め始める。容器であるべき存在が、注ぎ込まれた情動を持て余して相手に返す。これは対話ではなく、構造的な「押し返し」だ。
これは余談ですが、ウィニコットの「ホールディング」概念を産業医学に持ち込んでいる論文を探すと意外なほど少ない。なぜかというと、産業医学はいまだに「行動変容」と「リスク管理」の言語で動いているからだ。構造の話をしたがらない。構造の話をすると、誰かが変わらなければならなくなり、大抵その「誰か」は権力を持った側になるからかもしれない。
ホメオスタシスとしての「閉じた組織」——なぜ開示要求は失敗するのか
生理学的な概念として、ホメオスタシスは「内部環境の恒常性維持」を指す。生体は外部刺激に対して、現在の平衡状態を保とうとする力を持つ。これは組織においても同型の現象が観察される。組織は、その構造を揺るがすような情報が内部に出現すると、それを無力化する方向に力を発揮する。
「なんでも話してほしい」という言説が組織に導入された場合、表層では対話が推進されているように見える。だが、組織の深層に流れるホメオスタシス的な力は、その開示が現在の権力構造や役割分担を脅かすものであれば、それを無効化しようとする。よく聞く話だが、「話を聞いてもらえた気がしなかった」「話してみたら、かえって状況が悪化した」という部下の感想は、このホメオスタシスの作動そのものだ。
ジョージ・オーウェルは『1984年』の中で「二重思考(doublethink)」という概念を提示した——矛盾する二つの信念を同時に保持し、どちらも真実と認識する能力。「なんでも話していい」と「実際には話すと不利になる」が共存する組織の中で、人々はこの二重思考を生きることを強いられる。これを職場のストレスと呼んでしまうと随分スケールが小さくなるが、現象としては同質のものだと私は思っている。
開示要求が失敗するのは、要求する側の誠意の問題ではない。構造の問題だ。安全基地としての機能を持たない場所に対して「開示せよ」という命令を発することは、酸素濃度が著しく低い空間で「深呼吸をしろ」と言うに等しい。高分圧酸素がなければ、どれだけ呼吸努力を増やしても酸素は取り込めない。問題は肺の機能ではなく、環境の構造にある。
攻殻機動隊的な問い——「接続」は誰の意図で行われるのか
攻殻機動隊の世界では、人間の脳に電子的なインターフェースが埋め込まれ、意識が直接接続される。あの作品が繰り返し問うのは「接続とは何か」という問いだ。接続は常に双方向ではない。誰かが誰かに「入り込む」ことができる。そしてその非対称性こそが、権力の問題になる。
管理職が部下に「心を開いてほしい」と言うとき、その接続の方向性を考えてみると面白い。情報は部下から管理職へ流れる。部下の内的状態、懸念、不満、脆弱性——これらが開示されるとき、管理職はそれを「受け取る」と同時に「持つ」ことになる。情報の非対称性が生まれる。管理職が自らの脆弱性を等価に開示しない限り、この構造は本質的に非対称なままだ。
ここで問われるのは、対話を求める管理職が、自分自身の「安全基地」をどこに持っているか、という問いだ。自分が誰かに受け取られる経験を持っていない人間が、他者を受け取ることはできない。これは能力論ではなく、構造論だ。受け取られる経験は、脳の回路として、神経レベルの記憶として、身体に刻まれる。刻まれていないものは、意志で補完できない。
ちなみに、管理職研修のプログラムの多くが「傾聴スキル」「フィードバック技法」を中心に設計されているのは、この問いを回避するための構造的な工夫だと解釈することもできる(笑)。スキルを教えれば問題は解決するという前提は、外科手術を「ハサミの持ち方」から教えるようなものだ。道具の問題ではなく、その道具を持つ人間の内的構造の問題なのに。
安全基地の「起源」——何が人を受け取れる存在にするのか
愛着理論の文脈では、ジョン・ボウルビィが「安全基地(secure base)」という概念を提唱した。安全基地とは、そこに戻れば調整してもらえるという確信を持てる存在のことで、その確信があってこそ人は探索行動——つまり外の世界との接触やリスクテイク——ができるようになる。
成人の愛着研究(Mary MainのAdult Attachment Interviewが有名だ)が明らかにしたのは、自分の養育体験を「整合的に語れる」人間は、たとえその体験が辛いものであったとしても、安定した愛着スタイルを持ちやすいという事実だ。重要なのは体験の質ではなく、体験を統合的に語れるかどうかだ。断片化されたまま語られない過去は、現在の関係性の中で症状として現れる。
これを管理職に適用すると、「自分がどのように育てられ、何を恐れ、何を求めているかを整合的に語れるか」という問いになる。これは自己分析の話でも内省の勧めでもない。構造の話だ。自分の物語を統合できていない管理職は、部下の語りを受け取る際に、自分の未統合の物語が干渉する。これは意志の問題ではなく、神経科学的な現実だ。
そして残酷なことに、多くの組織はこの問いを管理職研修のカリキュラムに入れない。「リーダーシップ」「コミュニケーション」「多様性」——そういう言葉は並ぶが、「あなたは誰かに受け取られる経験を持っているか」という問いを公式の場で立てる組織は、私の知る限りほとんどない(笑)。それを立てると、組織は「療法的」になってしまうという恐怖があるのかもしれない。だが、療法的であることを恐れる組織ほど、療法的な介入を必要とする問題を大量に生産している、という皮肉。
収奪なき対話の条件——あるいは「問い」として終わること
ここまで書いて、私はひとつの問いに戻ってくる。対話は、そもそも「求める」ものなのか。
アガンベンは「例外状態」を論じたが、対話における例外状態がある。それは「対話が義務として機能する瞬間」だ。「なんでも話してほしい」が「話さなければならない」に転化した瞬間、それはもはや対話ではなく開示の強制だ。そしてこの転化は、言語の上では目に見えない形で起きる。
収奪なき対話の条件をあえて言語化するなら、それは「沈黙が安全である」ということだ。語らなくてもよい、閉じていてもよい、という確信が成立して初めて、人は語ることを選択できる。安全基地の本質は「開示の誘引」ではなく「沈黙の保証」にある。開示を求める管理職が最初に作るべきものがあるとしたら、それは対話の場ではなく、沈黙を許容する空間だろう。
だがここで私は立ち止まる。沈黙を許容する空間を作るためには、管理職自身が沈黙に耐えられる必要がある。沈黙に耐えるためには、自分の内的な不安を沈黙の中に置いておける余白が必要だ。その余白は、誰かに受け取られる経験の積み重ねによって生まれる。つまり問いは再び最初に戻る。あなたは誰かに受け取られているか。
この問いに答えを持っていない管理職が対話を求めるとき、それは悪意ではない。ただ、自分が持っていないものを他者に求めているという事実は変わらない。そしてその構造は、自覚されない限り、世代から世代へ、上位から下位へ、静かに伝播し続ける。遺伝的アルゴリズムが適応的でない形質を引き継ぐように。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








