熱力学の第二法則は、宇宙があらゆる秩序を維持するためにエネルギーを消費し続けることを要求する。秩序を保つとはつまり、どこかで熱を発生させ続けるということだ。閉じた系の中では、局所的な整然さはかならず別の場所での乱雑さを代償として要求する。これは物理の話であるが、同時に組織論の話でもある、と私は思っている。
組織が「弱者を守る」という美しい命題を掲げるとき、たいていの場合、その熱を誰かが引き受けている。明文化されないまま、静かに、じわじわと。マネジメントの教科書にはこのプロセスが丁寧に記述されていないし、コンプライアンス研修でも触れられることがない。ただ現実として、エントロピーの増大を食い止めるための仕事は、食い止める能力のある人間に集中していく。これは悪意の話ではなく、勾配の話だ。水は低いところへ流れ、仕事は「できる人間」という名の窪地に向かって流れ込む。
私がこの問題を考え始めたのは、産業医として複数の組織を横断的に見るようになってからだ。バーンアウトで受診する人間の属性を眺めていると、ある偏りに気づく。極端に誠実で、極端に有能で、極端に責任感の強い人間が、その三つの性質ゆえに静かに壊れていく。一方、その人間が穴を埋めてきた側の人々は、往々にして無傷のまま組織に残り続ける。これを「不公平だ」と言うのは簡単だが、それだけでは何も説明していない。問題の構造を記述しなければ、怒りは消費されて終わる。
だから今日は、この構造を少し丁寧に解剖してみたい。答えを出すつもりはない。ただ、切り口を増やすことはできる。
「守る」という行為が含む、隠された非対称性
保護の論理というのは、常に非対称を前提にしている。強い者が弱い者を守る。余剰のある者が余剰のない者を支える。これ自体は倫理的に正当な命題であり、社会契約の根幹にある。ルソーがどう言おうとロールズがどう言おうと、最終的に「弱者への配慮」という命題に反論するのは政治的に難しい。
ただし、問題はその「強い者」の耐久限界を誰も計測しないことにある。
生態学に「キーストーン種」という概念がある。生態系の中で、その種の個体数に不釣り合いな影響力を持つ生物のことだ。ヒトデを例にパリー・テレビが1966年に記述したことで有名になった実験では、ヒトデを人工的に除去した海岸で、わずか数ヶ月で生物多様性が劇的に失われた。一つの種がいなくなっただけで、生態系全体のバランスが崩壊した。組織における「できる人間」は、しばしばこのキーストーン種に相当する。その人物が担っている機能が可視化されないまま、ただ「いること」で周囲の秩序が保たれている。そして去ったとき、初めてその人物が何をしていたかが明らかになる。
これは完全に蛇足ですが、攻殻機動隊のタチコマが「個体の消滅と情報の継承」について語る場面を思い出す。個が消えたとき、それが担っていた意味の総体がようやく言語化される、という構造は、組織と生態系と哲学を横断する普遍的なパターンだと思っている。脱線終わり。
閑話休題。組織が「弱者保護」という命題を掲げるとき、それは多くの場合、具体的な「誰かへの負担転嫁」とセットになっている。配慮が必要な人員に配慮を提供するためのコストは、空中から降ってくるわけではない。誰かの労働時間が、誰かの認知資源が、誰かの感情労働が、その原資になっている。そしてこの原資を供給し続ける人間は、たいていの場合、「できるから」という一点だけを根拠に選ばれている。選ばれた側の同意は、しばしば後付けで取得される。あるいは取得すら省略される。
ホメオスタシスとしての組織、あるいは「正常化」という名の圧力
生理学的なホメオスタシスは美しいメカニズムだ。体温が上がれば発汗で冷やし、血糖が上がればインスリンで下げる。逸脱を感知し、元の状態に引き戻す。これが個体の生存を支えている。
組織もまた、ホメオスタシスを志向する。ただし組織のホメオスタシスが「引き戻そうとする状態」は、必ずしも健全な状態とは限らない。機能不全が長期化した組織では、機能不全そのものがホメオスタシスの基準点になる。つまり、「できない人間が一定数いる」「できる人間がその皺を吸収する」という歪んだ状態が、組織の「正常」として定義されてしまう。
この状態で改善を試みる人間は、ホメオスタシスの敵として扱われる。負荷の不均衡を指摘する者は「空気が読めない」と評され、能力に見合った評価を求める者は「自己中心的だ」と批判される。組織の免疫系が、健全化を試みる細胞を攻撃する、というグロテスクな自己免疫疾患の構造だ。
1984年のオセアニアが、真実省において歴史を書き換え続けることで「現在が常に正しかった」という整合性を維持するように、機能不全組織は記憶と解釈を書き換えることで自らの歪みを正常化し続ける。「昔からこうだった」「みんなそれくらいやっている」「あなたが特別にきつく感じているだけだ」──これらは全て、ホメオスタシスが発する言語だ。
遺伝的アルゴリズムが示す、選択圧の残酷さ
進化論的に考えると、さらに暗い景色が見えてくる。
遺伝的アルゴリズムの基本原理は、「環境への適合度が高い個体が次世代に遺伝子を残す」というシンプルな選択圧だ。これを組織に当てはめると、「その組織で生き残れる個体の特性」が世代を経るごとに強化されていく。問題は、組織が何を「適合」と定義するかだ。
高負荷に耐えて黙って働く能力を「適合」とみなす組織では、そういう人間が選択される。感情的な訴えより論理的な効率を優先する文化では、感情を抑制できる人間が残る。過剰な責任感と自己犠牲を美徳とする組織では、燃え尽きるまで働ける人間が「優秀」と評価される。そしてこの選択圧の下で、継続的にスクリーニングされ続けた組織は、バーンアウトに向かって最も効率的に進む個体を集める装置として機能し始める。
これは誰かの悪意ではない。選択圧の結果だ。設計者がいない災害と同じで、誰も意図していないが、誰もが参加している。
ちなみに、これは企業組織に限った話ではない。医療業界の構造的な疲弊も、法律事務所の若手弁護士の自殺率の高さも、学術界の研究者の精神的消耗も、全て同じ選択圧の文脈で読める。「使命感のある人間ほど搾取されやすい」というのは経験則ではなく、アルゴリズムの必然だ。
「できる人間」が燃料になる瞬間の、現象学的記述
臨床の場で、この「燃料化」のプロセスを観察してきた。現象を時系列で記述すると、おおむね以下のような構造を持っている。
最初の段階では、本人も組織も問題を認識していない。有能な人間がその能力を発揮しているだけ、という外形を持っている。本人には達成感があり、周囲からの肯定もある。この段階では、構造の歪みは見えない。むしろ「うまくいっている」という感触がある。
次の段階で、静かな変化が始まる。本来その人間が担うべきでない業務が、少しずつ、言語化されないまま移譲されていく。「あなたならできるから」という論理で、断るコストが承認するコストを上回り続ける状況が設計される。この段階でも、本人には問題の全体像が見えていない。局所的な疲労として経験されるが、全体の構造としては認識されない。
第三段階で、疲弊が認知機能に影響し始める。判断のスピードが落ち、感情の調整が難しくなり、以前なら気にしなかった些細なことが急激に苦痛になる。この段階に至って初めて本人は「何かがおかしい」と気づくが、すでに組織への依存と自己評価の低下が絡み合って、離脱が著しく困難になっている。
Animatrixの「Second Renaissance」が、人類とマシンの関係逆転を描く過程で示したのは、搾取が持続可能に見える間は、搾取される側も搾取する側も搾取の構造を認識しないという残酷な真実だった。持続可能性が失われた瞬間に、はじめてその構造の輪郭が見える。組織と「できる人間」の関係も、本質的に同じ位相を持っている(笑)。
保護と搾取の間にある、命名されない地帯について
弱者を保護することと、強者を搾取することは、倫理的には対極に見える。しかし現実の組織設計において、この二つはしばしば同じ施策の表と裏として現れる。
「問題のある社員を解雇できない」という制約は、労働者保護の文脈では正当だ。しかしその制約の下で、問題のある社員の業務を引き取り続ける隣の席の人間への配慮は、多くの組織で体系的に欠落している。「守られる者」と「守るために消耗する者」の間にある非対称は、制度の設計段階で見えていないか、あるいは見えていても計上されていない。
これを個人の道徳の問題に還元するのは、あまりにも貧しい分析だ。問題は個人ではなく、設計にある。そして設計の問題を個人の問題として処理し続ける組織は、最終的に「気づいた個人」から順番に失っていく。気づくほど賢く、気づいたことを言語化できるほど有能な人間から、静かに去っていく。これは論理的必然だ。残るのは、気づかないか、気づいても言語化しない人間だ。
カフカが「城」で描いた測量士Kの不条理は、「到達できない目標に向かって誠実に努力し続けることの消耗」だったが、現代の組織における「誠実な人間の消耗」もその構造とどこか似ている、と私は思う。誠実さが武器にならず、誠実さが脆弱性として機能する環境における、誠実さの行方について(笑)。
答えは出ない。ただ、この構造を「個人の頑張りの問題」として語ることへの、静かで強固な異議を私は持ち続けている。搾取の構造を愚痴として処理させることは、搾取の継続に加担することだからだ。少なくとも私は、その加担を拒否する立場から、この問題を見ている。それだけは言える。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








