リスキリングという名の更生プログラム──「学べない者は罰せられる」社会の設計思想を解剖する

フーコーは「規律・訓練」の中で、近代の権力が身体を管理する方法として、試験・監視・正常化の三つを挙げた。試験とは単なる評価装置ではない。それは、個人を可視化し、序列化し、「正常」と「逸脱」の境界線を引き続けるための恒常的な装置だ。私がリスキリングという語を耳にするたびに、なぜかこのフーコーの視点が脳裏をよぎる。

「学び直し」という言葉の響きは、一見すると温かい。生涯学習、自己投資、成長の機会。メディアはその文脈でリスキリングを語り続ける。だが現場で起きていることを少し丁寧に見ると、その語の内側に全く別の論理構造が張り付いているのがわかる。それは成長の設計図ではなく、更生プログラムの設計思想だ。

更生という言葉は刑事司法の文脈で使われる。罪を犯した者が社会に戻るために、矯正・教育・訓練を受ける。注目すべきは、更生プログラムに「参加したい」と言って来る人間はほぼいないという事実だ。参加は義務であり、不参加は不利益を意味する。私はこの構造が、多くの企業のリスキリング施策と驚くほど相似形を描いていると思っている。

もちろん、これは比喩的な話だ。だが比喩は往々にして、直接言及するよりも正確に本質を刺す。

学習は本来、罰の形をしていない

生物学的に言えば、学習とは神経可塑性の発現だ。シナプスの結合強度が変化し、新しい回路が形成される。そのプロセスには一定の条件が必要で、その最も根本的な条件は「報酬予測誤差」──つまり、期待を超えた何かが来たときにドーパミンが放出されるという機構だ。内発的な驚きや好奇心が、学習の神経基盤を支えている。

ところが、「来月までにDX研修を修了してください」「資格取得が昇進要件になります」という形で提示されるリスキリングは、この神経学的な学習の起動条件をほぼ完全に満たさない。それどころか、コルチゾールが前景化するような脅迫的な文脈の中では、海馬の機能が抑制され、記憶の定着そのものが阻害される。罰的文脈における学習は、生物学的にも非効率だ。笑えるくらい皮肉な話だが、これは笑い事ではない(笑)。

1950年代から60年代にかけて、ハリー・ハーロウがアカゲザルを使って行った実験がある。子ザルに難解なパズルを与えると、彼らは自発的に、報酬なしで、それを解こうとし続けた。ところが「パズルを解いたらエサをやる」というルールを導入した途端、ザルたちのパズルへの興味は急速に薄れた。報酬が外在化された瞬間に、内発的動機が汚染される。これはデシとライアンが後年「認知的評価理論」として体系化するが、元々の観察は驚くほど単純だ。外から罰と報酬を設計すればするほど、学びは死ぬ。

「変われない者」という新しいカテゴリーの発明

近代の産業社会が繰り返してきたのは、新しい「正常」を設定し、そこに達しない者を病理化するプロセスだ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、「怠け者」は道徳的欠陥から医学的欠陥へと再定義された。神経衰弱、低能、精神薄弱。これらのカテゴリーは、当時の労働市場が必要とした「生産性の基準」に基づいて構築された疾患概念だ。

今、似たことが起きている。デジタルトランスフォーメーションの波に乗れない中高年労働者は、徐々に「学習能力の低い者」として記述され始めている。医学的な診断ではないが、人事上の分類としては機能している。リスキリング研修の出席率、e-ラーニングの修了率、資格取得の有無。これらのスコアが、「変われる者」と「変われない者」を可視化し、序列化する。フーコーが言うところの「正常化の眼差し」が、今度はオンライン研修管理システムのダッシュボードから注がれている。

これは余談ですが、私が産業医として企業に入るとき、研修の受講完了率を「メンタルヘルスの指標」として活用している担当者に複数回会ったことがある。その発想自体は理解できなくもないが、完了率が低い理由を「モチベーションの低さ」「問題社員のサイン」と読むその視線の方向が、私には少し奇妙に映る。受講できない側の文脈を問わずして、数値だけを読む。これは診断ではなく、分類だ。

システムが自己複製するとき、学習は手段でなく目的になる

グレッグ・イーガンの小説「順列都市」には、シミュレーションされた存在が自らのルールを自律的に変化させながら存続し続けるというアイデアが登場する。その存在は「生存のために変化する」のではなく、変化すること自体が存在様式になっている。これを読んだとき、私は妙に現代の組織を思い出した(笑)。

企業のリスキリング施策が自己目的化するとき、似た構造が現れる。何のために学ぶのか、学んだ後に何が変わるのか、という問いは後景に退き、「研修プログラムをいかに設計・実施・評価するか」というメタレベルの活動が前景を占拠する。人事部門は研修を管理し、外部ベンダーは研修を販売し、管理職は部下に受講を督促する。全員が動いているが、誰も「学習そのもの」には触れていない。

生態学で言う「ニッチ構築」に似ている。生物が環境を改変することで自らに有利な条件を作り出し、その条件が次世代の選択圧を変える。リスキリング産業も、学習の必要性を社会的に構築することで自らの市場を拡張し、その構築された需要が次の研修プログラムを呼び込む。教育産業は常にこの自己複製に親和性が高いが、それが「罰」の文脈と結びついたとき、脱出できないループができあがる。

なぜ人は「罰としての学習」に抵抗できないのか

オーウェルの「1984」でウィンストンが最終的に到達するのは、自分の意志で党を愛するという状態だ。拷問によってではなく、拷問を経た後に、彼は自発的に服従を選ぶ。セリグマンが「学習性無力感」の実験で見せたことも構造的には同じだ。回避不可能な苦痛に繰り返しさらされた後、生物は脱出可能な状況になっても脱出しようとしなくなる。

リスキリングの文脈に置き換えれば、こうなる。変化を要求され続け、しかし変化しても評価されない経験を重ねた労働者は、やがて「学習を拒否する意志」すら失う。拒否するエネルギーがないのではなく、拒否することに意味を感じなくなる。そして研修に「参加」し、修了証を受け取り、何も変わっていない日常に戻る。このプロセスは、表面上は学習のように見えるが、内実は服従の儀式だ。

産業医として企業内の人間を見続けてきた経験から言えば、この状態はしばしば「意欲の低下」や「職業的倦怠感」として記述される。だが私の目には、それは病気の症状ではなく、不合理なシステムへの合理的な適応のように映ることが多い。症状を治療しようとすることが、どれほどの的外れになりえるか、ここから想像してもらえるだろうか。

学習が本来持っていた、暴力性への抵抗という側面

歴史を見れば、学習は常に権力に従順だったわけではない。パウロ・フレイレが「被抑圧者の教育学」で描いたのは、教育が「銀行型」モデル──知識を預金するように受け取らせる構造──に陥るとき、それは支配の再生産装置になるという批判だ。フレイレにとって、真の学習は批判的意識の覚醒であり、それは現状を問い直す力を生む。

ちなみに、フレイレはブラジルの農村で非識字者の識字教育に携わっていた人物で、その思想はラテンアメリカの政治運動とも深く絡み合っている。彼の名前を企業研修の文脈で出すのは若干の文脈破壊ではあるが(笑)、その問いは普遍的だ。「誰のための学習か」「何を正常とする学習か」。

現在のリスキリング言説の中に、フレイレ的な問いはほぼ存在しない。「AIに代替されない人材になれ」「デジタルスキルを身につけよ」という命令は、現状の経済秩序を自明の前提として受け入れることを求めている。その秩序を問い直すための学習ではなく、その秩序に自分を適合させるための学習だ。罰の構造と完全に共鳴する。

思索の終わりではなく、問いの入口として

私がここで言いたいのは、「リスキリングは悪い」という単純な命題ではない。そんな結論は面白くもなければ、思索の産物でもない。私が関心を持っているのは、ある概念がある文脈の中に置かれるとき、その概念がまったく別の機能を始めるという現象だ。学習という概念が「罰」の文脈に配置されたとき、学習は学習でなくなる。シニフィアンは同じでも、シニフィエが別物にすり替わっている。

これはリスキリングだけの話ではない。「自己責任」「働き方改革」「ウェルビーイング」。善意の概念が次々と管理の言語に翻訳され、個人に内面化されていく。その翻訳プロセスを見落としたまま概念を受け取ると、私たちはいつのまにか、抵抗の言語を奪われた状態で、支配の仕組みの中に自発的に参加していることになる。

攻殻機動隊の草薙素子が「自分は自分であり続けられるのか」と問うのは、義体化と電脳化が進んだ未来においてだ。だが彼女の問いは今この瞬間にも有効だ。外部から設計された学習プロセスの中で、私は何を考え、何を欲しているのか。その問いを持ち続けることができるかどうか。それだけが、更生プログラムとしての学習と、本来の意味での学習を分ける唯一の境界線かもしれない。

── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。

著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。

近澤徹 医師の写真

医師監修:精神科医 近澤 徹

Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。

  • 医療法人鳳應会 理事長
  • 北海道大学医学部卒
  • 慶應義塾大学病院
  • 東京女子医科大学病院 研究員
  • 名古屋市立大学病院 客員研究員
  • 日本医師会認定産業医 / 精神科医
  • 株式会社Medi Face 代表取締役医師
  • 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
  • Z産業医事務所 代表医師
  • Medi Lex 代表医師
  • 須賀法律事務所 顧問医師
  • 日韓美容医学学会 常任理事
  • FRAISE CLINIC 統括医師
  • 日比谷セントラルクリニック 副院長
  • EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
  • アイエスクリニック六本木 統括医師
  • ルナビューティークリニック池袋 統括医師
  • 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院

編集部

Medi Face Journal編集部は、医療・テクノロジー・キャリア・ウェルビーイングといった領域を横断し、“いま本当に知るべきこと”を掘り下げて伝える専門メディアチームです。 医師・研究者・編集者・エンジニアなど、異なる背景を持つメンバーが集い、精神医療から産業ヘルスケア、医療人材のリアルまで、多角的な視点で「医療という営み」の本質に迫ります。

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