1953年、スタンレー・ミルグラムがその悪名高い実験を設計するより少し前の話をしたい。ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判を傍聴しながら、「悪の凡庸さ」という概念を静かに発見しつつあった。大量虐殺の歯車を回したのは、狂信的なモンスターではなく、命令に従い、手続きを遵守し、上司に忠実であろうとした、どこにでもいる「善良な」官僚だったという洞察だ。私がこの話を持ち出すのは、悪について論じたいからではない。むしろ逆で、「善意」というものが持つ奇妙な破壊性について考えたいからだ。
優しさが機能不全を延命させる、という命題は、一見して逆説に聞こえる。優しさとは修復する力であり、癒やす力であり、少なくとも文化的な定義においては「良いもの」のはずだ。しかし私はここ数年、企業組織の中で、家族の中で、時に個人の内的構造の中で、この命題が驚くほど精密に作動しているのを観察し続けてきた。優しさが、腐敗の進行を穏やかに、しかし確実に遅らせている。まるで防腐剤のように。
防腐剤という言葉は蔑称のつもりで使っているわけではない。防腐剤の機能は実際、腐敗を止めることではなく、遅らせることだ。ホルムアルデヒドに漬けられた標本は腐らない。しかしそれは生きてもいない。この中間のどこかに、「優しさによって維持されている機能不全」という現象が存在する。
これを「感情の問題」として処理することは簡単だが、私はそれが知的に不誠実だと思っている。感情は構造を持ち、構造は力学を持ち、力学は予測可能な結果を生む。ならばもう少し解像度を上げて、この現象の内部を覗いてみる価値がある。
ホメオスタシスの罠──システムは均衡を「生存」と混同する
生物学に「ホメオスタシス」という概念がある。体温・血糖・血圧を一定範囲内に保とうとする、生体の自動制御機構だ。これは生存にとって必須の仕組みだが、同時に奇妙な性質を持っている。システムが「現在の状態を維持すること」を目的化してしまうと、維持すること自体が目的になる。変化への抵抗が、変化の必要性より先に作動する。
組織も家族も、そして個人の精神構造も、同じ原理で動いている。均衡を乱す刺激があると、システムは自動的にそれを打ち消そうとする。問題は、その打ち消しに使われるリソースが「優しさ」である場合、それが極めて見えにくいということだ。怒りや攻撃による抑圧は誰の目にも明らかだが、包容による吸収は美徳の顔をしている。
たとえば、慢性的に成果を出さないメンバーを「彼にも事情がある」「今は難しい時期だ」という配慮で包み続ける組織を想像してほしい。この配慮は本物の優しさから出ているかもしれない。しかしシステムとして見ると、その優しさは「現在の均衡を保つためのフィードバック機構」として機能している。不均衡を是正するのではなく、不均衡を覆い隠すことで均衡を偽装する。生体で言えば、炎症を免疫で抑えるのではなく、痛み止めで感覚を遮断し続けるようなものだ。
これは余談ですが、ホメオスタシスの話をするとき私はいつもヘーゲルの「悪しき無限」を思い出す。有限なものが自分の限界を超えようとするのではなく、同じ往復運動を繰り返す中で「進んでいる」と錯覚する状態のことだ。組織の「優しい均衡」は、まさにこの構造をしていることが多い。前に進んでいない。ただ往復している。
善意の遺伝的アルゴリズム──最適解に辿り着かない選択圧
遺伝的アルゴリズムという最適化手法がある。生物の進化をモデルにした計算技術で、候補解を「個体」として、選択・交叉・突然変異を繰り返すことで最適解に近づいていく。重要な概念として「選択圧」がある。環境が厳しければ厳しいほど、適応できない個体は排除され、より優れた解が残っていく。
ここで問いを立てる。選択圧が意図的に弱められた環境では何が起きるか。答えは明快で、最適化が止まる。全ての個体が「それなりに生き残れる」ため、優劣の差が縮小し、より良い解への収束が起きない。これをローカル最適解への固定化と呼ぶ。最悪の解ではないが、最良の解でもない状態が永続する。
「優しい環境」は、しばしばこの選択圧の減衰として機能する。機能不全を持つ個体(人、行動パターン、組織構造)が「排除」されないとき、システム全体の最適化圧力が消える。これは個体への「慈悲」ではある。しかしシステムへの慈悲かどうかは、別の話だ。
もう少し具体的に言うと、私が観察してきた企業組織の中で最も根深い機能不全は、往々にして「良い人たち」によって維持されている。声を荒げる独裁者がいる組織は、むしろ問題が可視化されやすい。恐ろしいのは、全員が互いを気遣い、波風を立てず、不快な真実を言わない、穏やかな雰囲気の組織だ。そこでは問題が問題として認識される前に、優しさの海に溶けて見えなくなる。
アレクサンドル・デュマとクロノスの不在──「語られない物語」の病理学
ギリシャ神話のクロノスは、権力を失う恐怖から自分の子を次々と飲み込んだ。これは「恐れによる抑圧」の原型的な物語だ。しかし私が興味を持つのは、クロノスに対置されるものとして「語られない」バリエーションがあることだ。子を飲み込むのではなく、子が傷つかないようにと、外敵から守り、選択の必要を消し、失敗の経験を先回りして除去し続ける親の物語。これはギリシャ神話にはない。近代の発明だ。
精神分析の文脈では「過保護」として処理されるこの構造を、私はもう少し違う角度から見たい。「成長の触媒となる摩擦を除去し続けること」は、究極的には相手の可能性を凍結させる行為だ。ただしそれは、慈悲の名のもとに行われる。
これは完全に蛇足ですが、カフカの『変身』でグレーゴル・ザムザが虫になった後、家族が彼を養い続けるくだりがある。最初は世話をする。そのうち負担になる。しかし最後に家族が解放されるのは、グレーゴルが自ら死を選んだ瞬間だ。カフカがこれをどう書いたかというと、家族は悲しまない。むしろ安堵し、旅行に行こうと計画する。この話が「優しさによる延命」の話として読めると気づいたのは、わりと最近のことだ(笑)。
組織においても個人関係においても、機能不全が長期化するとき、そこには必ず「傷つけたくない」という動機を持つ誰かがいる。その誰かは悪人ではない。むしろ善意の塊だ。しかしその善意が、問題が問題として結晶化するのを妨げ、当事者が自らの限界と向き合う機会を系統的に奪っている。
イネーブリングという概念が示す構造的共犯
依存症の臨床においては「イネーブリング」という概念がある。アルコール依存症者の配偶者が、本人に代わって謝罪し、後始末をし、職を失わないよう取り繕い、関係を維持するために問題を隠蔽し続ける行動パターンのことだ。イネーブラーは被害者であり、かつ加害者でもある。そして決定的に重要なのは、イネーブラーは愛情から行動しているということだ。
これを「意地悪な人間の行為」と見なすのは簡単だが、構造的には全くそうではない。イネーブラーの行動は、短期的な痛みを回避することで、長期的な破滅を確実に近づけていく。そしてこれは、依存症という特殊な文脈に限らない。
成果を出さない部下を「彼はがんばっている」と庇い続けるマネージャー。不登校の子どもに「今は休んでいい」と言い続ける中で、問い直しの機会を消し続ける親。「あなたはそれでいい」と言い続けることで、相手が自らの問題と向き合う動機を静かに奪っていく友人。いずれも悪人ではない。しかし機能論的には、問題の延命装置として作動している。
ちなみに、イネーブリングの概念をシステム論的に展開したのはグレゴリー・ベイトソンだが、彼はアルコホリクス・アノニマス(AA)の回復プログラムを分析しながら、「依存というシステムは個人の問題ではなく、関係性のパターンとして発生する」という観点を提示した。つまり誰が悪いかという問いは、この構造に対してはほぼ無効だ。
「切断する優しさ」という矛盾した命題
では、優しさは常に有害なのか、という問いが生じる。当然、そうは思わない。問題は優しさそのものではなく、優しさが「現状維持のベクトル」として機能するか、「変化の触媒として機能するか」の違いだ。
外科手術は傷つける行為だが、治癒を目的としている。抗がん剤は毒だが、腫瘍を攻撃することで生存を可能にする。ある種の介入は、短期的には「優しくない」形をとりながら、長期的にはより深い意味での「相手の生存」に寄与する。問題はこれが非常に難しいということで、傷つけることを正当化する理由として「これは本当の優しさだ」という言説が使われてきた歴史もある。パターナリズムの歴史は、この言説の濫用の歴史でもある。
つまり「優しさで延命しているか、変化を促しているか」の判断は、外側から見ても難しいし、当事者から見てはほぼ不可能なほど難しい。私自身、長く産業医として組織を観察してきたが、この判断を正確にできた場面は、それほど多くないと思っている。むしろ後から振り返って「あれはイネーブリングだった」と気づくことの方が多い(笑)。
攻殻機動隊の草薙素子は、肉体のほぼ全てをサイボーグ化しながら「自分がゴースト(魂)を持っているかどうか」を問い続けていた。私がこれを持ち出すのは哲学的な話をしたいからではなく、あの問いの構造が「機能不全を維持している関係性」に似ていると思うからだ。システムは動いている。しかしその中に本来あるべきものが、まだあるのかどうかが、わからない。
腐敗を許す、ということ
死んだ木は倒れ、腐り、菌類に分解され、土に還り、次の植生の栄養になる。これを生態学的には「物質循環」と呼ぶが、私は単純にこのプロセスを「腐敗の倫理学」として考えることがある。腐ることを許すのは、次の生成を可能にするための条件だ。
防腐剤を注入し続けることは、腐敗を防ぐが、循環も止める。完璧に保存された標本は、それ以上何も生まない。ホルムアルデヒドに漬かったカエルが跳ぶことはない。そしてこの比喩は、組織においても、関係においても、個人の精神においても、驚くほどよく機能する。
「優しさ」によって機能不全が防腐処理されているとき、私たちは何かを守っている。その何かは本物かもしれない。しかし守ることと、生かすことは、同じではない。むしろ時として、守ることは生かすことの最大の障害になる。
私はこの問いに答えを持っていない。「だからこうすべきだ」という結論を持つほど、この問題は単純ではないと思っている。ただ、自分が今誰かに対して、あるいは何かに対して向けている「優しさ」が、防腐剤として機能していないかどうかを、時々静かに疑ってみることには、意味があるかもしれない。あるいはないかもしれない。それもわからない。
── 現在、私の主戦場はあくまで法人の経営であり、臨床医として現場に立つ時間は極めて限られています。そのため、提供する医療の質を最高水準に保つべく、診察は完全紹介制とし、普段は特定のVIPの方々に限定してお受けしている次第です。
とはいえ、自らの深い痛みや組織の歪みと真正面から向き合い、本質的な解決を望まれる方に対しては、常に扉を開いておきたいと考えております。何かご相談がございましたら、どうぞご遠慮なくご連絡ください。
著者
近澤 徹(Toru Chikazawa)
精神科医・産業医/Medi Face代表
「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、教科書に載らない人間の感情や衝突、文化や社会構造までを「臨床」として捉え、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。
医師監修:精神科医 近澤 徹
Medi Face代表医師、精神科医、産業医。
精神医療と職場のメンタルヘルスに関する啓発活動に従事し、
患者中心の医療を提唱。社会的貢献を目指す医療者として、
日々の診療と研究を続けている。
- 医療法人鳳應会 理事長
- 北海道大学医学部卒
- 慶應義塾大学病院
- 東京女子医科大学病院 研究員
- 名古屋市立大学病院 客員研究員
- 日本医師会認定産業医 / 精神科医
- 株式会社Medi Face 代表取締役医師
- 株式会社Legal Doctor 代表取締役医師
- Z産業医事務所 代表医師
- Medi Lex 代表医師
- 須賀法律事務所 顧問医師
- 日韓美容医学学会 常任理事
- FRAISE CLINIC 統括医師
- 日比谷セントラルクリニック 副院長
- EIGHT CLINIC渋谷 統括医師
- アイエスクリニック六本木 統括医師
- ルナビューティークリニック池袋 統括医師
- 医療法人伯鳳会 赤穂中央病院








